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全国の奈良姓分布の歴史、各県それぞれのまとめⅧ‐2

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

長年にわたる県議会での「カツアゲ」問題に揺れる福岡県議会ですが、まあ福岡県政を牛耳るボス同士の争い、なのでしょうかね?

何でこの時期に?、と言えば、うがった見方をすれば、もしかすると、例の皇室典範改正問題で、影の黒幕とされる人物への反撃か

も?、とも捉えることが出来るかも知れませんよ。まあ、真相は藪の中ですけどね、、、、

 

 さて前回は、神奈川県における奈良姓の偏在(厚木市や相模原市)の、理由・歴史的背景について、仮説を展開させて頂きました。

すなわち、鎌倉幕府誕生による、武蔵国幡羅郡出自の御家人:奈良氏が、いざ鎌倉や鎌倉番役のために、神奈川県内に拠点を作り、

入植したのが発端である、という仮説でした。東国武士団には、自分たちの鎌倉を守る、という義務があったからです。それで厚木

市や相模原市に、奈良氏一族は入植したので現在も、奈良姓の人口比率が高くなっているのだ、という考え方でした。

 

ところがなんです。神奈川県内には、横浜市青葉区に奈良町(旧奈良村)が存在しています。有名な「こどもの国」のある地区です。

この奈良町は、御家人奈良氏の集落と、何か関係があるのでしょうか?、私は関係があると考えているんです。実は横浜市青葉区の

奈良町(旧奈良村)だけでなく、埼玉県の大宮の北にも、奈良町(さいたま市北区奈良町)が存在するのです。この2つの奈良町を、

鎌倉と結んでみると、どうでしょうか? そうなんです、掲示鎌倉街道図の「中道」になるのですよ。つまり鎌倉街道の中道沿いに、

2か所の旧奈良村が存在していた、ということなのです。これはやはり、鎌倉街道中道ルートも考える必要があるのかも知れません。

まあかなり、こじつけの説ですかね? 更には、現在の神奈川県内の奈良姓の人口分布状況では、青葉区の奈良姓は平均値以下で、

決して多くはないのです。またこの奈良姓割合が低い状況は、さいたま市北区奈良町の奈良姓の分布状況でも、実は同様なんです。

つまり、鎌倉街道の中道沿いに、奈良姓が少ないのに、何故か奈良町(奈良村)が2か所もあって、逆に鎌倉街道の上道ルート沿い

には、多数の奈良姓が現存する厚木市や相模原市が存在する、と言う状況なのです。この状況を、一体どのように理解したら良い

のでしょうか? これが前回、神奈川県編の続き、今回のテーマなのです。無理やりのこじつけ仮説、ですかねえ?

やはり鎌倉期の鎌倉街道と、奈良姓の人口分布を結びつけるのには、無理があるのでしょうかね? 別な要因なのでしょうかね?

 

 しかし実は、鎌倉期の鎌倉街道と、どうしても結びつけたくなる理由が存在するのです。それは、相模原市に多いのは、奈良姓

だけではない、と言う点なんです。実は成田姓も別府姓も玉井姓も、神奈川県内では断トツに、相模原市に集中しているのですよ。

これって奈良姓を含めると、鎌倉初期の武蔵国幡羅郡出自の下級御家人、成田四家じゃあないですかね? 更に言うと、成田四家?

だけじゃあないんですよ。同じく武蔵国北部出自と言われる、熊谷姓や中条姓、畠山姓、岡部姓もみんな、ダントツで相模原市に

集中しているのです。鎌倉初期の御家人姓、成田四家に加え、熊谷氏、中条氏、畠山氏、岡部氏です。

これって、どういうことなのでしょうか?、すなわち吾妻鏡で、奥州合戦後の源頼朝の上洛凱旋パレードに登場している武蔵国の

北部出自と考えられる御家人の姓の大多数が、現在も何故か、相模原市に集結している、という事実なんです。

考えられる理由の最大公約数は、武蔵北部出自の鎌倉御家人、という理由なんです。そうなると、鎌倉期の鎌倉街道と相模原市の

関連を、考えざるを得ない訳なのですよ。

 

この課題を考える上で、押さえて置くべき重要な考え方として、平安末期までの東国(関東)は、京都から見て未開の地であった、

と言う点なのです。東海道と、奥州多賀城(宮城県)まで続く東山道は、官道として存在していたものの、それ以外の関東各地を

結ぶ街道網などは、きちんと整備はされていなかったハズなのです。つまり鎌倉幕府成立当初は、京都と鎌倉を結ぶ街道すら存在

していなかった訳なのです。(※東海道はありましたけどね、鎌倉とは結ばれていませんでした。)

ですから、源頼朝が東国政権(鎌倉幕府)を打ち立てたことによってようやく、東国の街道網が整備された、ということなのです。

無論、幕府成立後すぐに、京都と鎌倉を結ぶ東海道はすぐに整備されたのですが、鎌倉と関東各地を結ぶ主要街道は、真ん中を貫く

古代の東山道武蔵路(右掲示図)しか存在していなかったのです。(※鎌倉⇔府中市⇔足利市あたりで、東山道と合流。)

従って、関東の御家人達は、自分達の本領と鎌倉を結ぶ街道を、自ら整備しなければならなかったのです。その際最初に利用された

のが、古代から存在していた東山道武蔵路(後の鎌倉街道中道)でした。この街道と自分達の各本領とを結んだ訳なのです。

なので奈良氏の場合は、さいたま市大宮の北が、幡羅郡奈良村と、東山道武蔵路との結節点になったものと考えられます。そこで

この地点に御家人奈良氏の居留地(駅)、奈良村を作りました。しかし大宮から鎌倉までは、まだ80Kmぐらいもあるので、いざ鎌倉

に間に合いません。そこでもっと鎌倉に近い横浜市青葉区に、奈良村をもう一つ作ったのでした。私はこれが、さいたま市と横浜市

に現在も残る「奈良町」の発祥、だと考えています。

ところが、武蔵国幡羅郡あたりから、この東山道武蔵路を経由するこのルートは、迂回しているので距離が長いのです。鎌倉まで

時間がかかるのです。そこで武蔵国北西部の御家人達は、鎌倉街道中道ルートを捨て、新たに上道ルートを整備し、居留地として

相模原市周辺に、多くの武蔵御家人達が集結したのでした。逆に奈良氏一族が相模原市に去ったことにより、奈良村から奈良姓は、

いなくなってしまったのでした。私はこの時期について、尼将軍北条政子によって、武蔵の御家人達がもてはやされた、承久の乱の

前後ではないか?、と思っています。武蔵武士団の到着を待ってから、鎌倉軍は京へ出陣しているからです。なのでこの頃は、京都

の朝廷勢力から、鎌倉を守る必要性が高まっていた時期だったのです。だからこそ、各御家人は、鎌倉の近くに駐屯したのですよ。

 

このように考えると、何故相模原市に、武蔵国北部出自の鎌倉御家人姓が突出しているのかが、多少は理解することが出来るのです。

いかがでしょうか?(次回へ。)