いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。2週間ぶりの更新になりましたが、今後もこのペースで更新させて
頂く予定です。体力的に、毎週の更新が難しくなって来たためです。悪しからず、お許し下さい。
トランプによるイランとの停戦合意は、ひどいものですね。自分で火をつけておいて火消しに奔走するなど、マッチポンプの
典型です。その情けない醜態を、G7首脳陣が、太鼓持ちよろしく、持ち上げるなど、見苦しい光景が展開されました。ホルムズ
海峡から各国の船舶が全ていなくなったら、また再び、戦争が始まるんじゃないですかねえ?
さて前回は、室町期、細川京兆家の被官で宇多津の領主だった、讃岐奈良氏の故郷である香川県(黄色部分)について、見て
参りました。ただ、戦国期には讃岐奈良氏は、長曾我部氏によって滅ぼされ、秀吉の四国統一によって、ようやく帰還したので、
領主時代の領地、西讃岐の沿岸部ではなく、目立たない内陸部で、ひっそりと農民を続けたのだ、というのが私の考えでした。
さて今回は、西日本最後の黄色部分、大分県です。東国出自の奈良姓が、何ゆえ、大分県にまでたどり着いたのでしょうかね?
⑧大分県:掲示の日本地図で黄色に表示されている大分県ですが、奈良姓人口は大分県全体でも、約380人程(名字由来netより)
であり、他県と比べても決して多い数ではありません。しかし県人口も106万6千人程であり、奈良姓の県人口比率は、
0.035%と、全国平均値の0.026%よりは僅かに高いため、薄い黄色で表示されている訳なのです。まあ県全体で言えば、
誤差の範囲?とも言える程度かも知れません。ですから私も、大分県の奈良姓については、あまり気にも留めては来ま
せんでした。しかし良く調べてみると、実は県内に何故か、奈良姓の地域的偏在が存在していることが判るのです。
具体的には、人口の多い県都大分市では、0.053%と全国平均値より高い数値なんですが、大分県第二の都市、別府市
では、0.017%と、全国平均値以下な訳です。まあこの程度のバラつきは、あるのだろうと考えられるのですが、県の
北部を見ますと、宇佐市にだけ110人、何と0.22%も存在していたのです。全国平均値の10倍近い高比率なんです。
更に奈良姓が特に集中しているのは、宇佐市の中でも、お隣り中津市との境界付近に位置する、宇佐市佐野地区に集中
しているのです。この偏在は、誤差の範囲?と無視する訳には行かず、歴史的背景について、考えざるを得ない状況に
なったのでした。どうしてこんな場所に、奈良姓が多いのか?、なんです。何か理由があるハズなんです。
そこで私は、武家奈良氏や奈良姓農民と豊前国の宇佐について接点を色々調べてみましたが、何も見出すことは出来ま
せんでした。
その後ある日突然、発見したのが、豊臣政権末期の1600年(慶長五年)に、五大老の筆頭、徳川家康が、丹後国領主
細川忠興に対し、領国から遠く離れた豊後国(大分)の速見郡・杵築郡6万石を加増した、という記録だったのです。
関ケ原の直前ですね、秀吉は死亡していて既にいません。細川忠興とは、室町将軍家側近だった、細川藤孝の嫡男で、
妻は明智光秀の娘、細川ガラシャですから、豊臣政権内では、秀吉からは、あまり評価はされていませんでした。
逆にこの細川忠興を高く評価していたのが、五大老筆頭の徳川家康でした。前年に加藤清正らと共に、石田三成と対立
した点も評価されたのだろうと思われます。しかしこの6万石の加増、本領丹後から遠く離れた豊後ですから、忠興本人
が赴任する訳には行きません。なので細川家の重臣、松井康之・有吉立行を城代として豊後国杵築へ派遣したのでした。
その頃、お隣り豊前国の中津・宇佐は、黒田如水(黒田官兵衛)の領地でした。(しかし如水もまた、中津城には居住
していません。豊臣政権の有力大名は、領国ではなく、京都に居たからです。)
で、同じ1600年の関ケ原の戦いで家康が勝利すると、黒田如水・長政父子は、筑前福岡へ加増移封されます。その中津
の領地を得て、丹後から加増移封されて来たのが、細川忠興だったのです。(豊後の速見郡・杵築郡6万石はそのまま。)
まあ更にその後は、細川氏は熊本藩へと移封されて行くのですけれどね。
さてここからが、私の推論です。家康は、豊前中津における新領主細川忠興に対する農民の一揆を抑える統制の目的で、
三河岡崎の古くからの名主クラスの農民を、豊前中津に送り込んだのだろうと、私は考えるのです。前領主黒田如水は、
中津城に住んでいなかったからです。更にはまだ戦国時代だったので、監視の目的、ということもあったと思われますが。
家康による同様の事例は、大阪佃の漁師を江戸の佃島に派遣したり、江戸の町年寄として、奈良屋市右衛門を送り込んで
いる例もあり、同様の派遣事例だろうと考えられるのです。
家康によって豊前に派遣された農民とは、三河岡崎の細川姓農民と、奈良姓農民でした。細川姓農民は中津へ、奈良姓
農民は宇佐(宇佐市佐野地区)へと派遣されました。どちらも室町期の先祖は、細川京兆家との繋がりが深かったから、
なのです。多分家康は、細川藤孝・忠興父子が、細川京兆家=細川本家の家系なのだ、と思っていた可能性があります。
(実際は違いますけどね。)つまり家康と先祖が同郷で、三河の岡崎発祥の名家細川氏に対し、強い親近感があったの
ではないか?、と考えられるからなのです。無論、一揆の芽を摘むという目論見もあったと思われます。何せ当時は
まだ戦国時代、更に当時はまだ、ある時は武士、またある時は農民、状況でしたからね。何故家康が?と思われますが、
秀吉時代には、細川忠興に加増など無かったのに、秀吉が死ぬと、待ってましたとばかりに、ポンと6万石も加増して
いるからです。でその後の明治期に、豊前の中津・宇佐は、行政区分の変更により、豊後(大分県)に組み込まれます。
この結果、中津・宇佐は、大分県になってしまったのでした。なので大分県に奈良姓が増える結果になったのでした。
このようにして、家康の撒いた小さな種が、時を超えて大分県の奈良姓の分布に、大きな影響を与えていた訳なのです。
しかし逆にこの派遣の結果、三河国岡崎には、細川姓農民も奈良姓農民も、遂に誰もいなくなってしまったのでした。
そしてこのことは、現在の名字分布調査の結果からも、確認することが出来るのです。
さてこの新説、いかがでしょうかね?(次回へ、 ※次回は7月4日の更新予定です。)



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