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物価の上昇が止まりません。しかも賃金や年金の上昇以上に、物価の方が上がっているのです。少し以前の日本がデフレだった時代
には、賃金も上がりませんでしたが、物価も全然上昇しませんでした。つまり均衡が取れていた訳です。ところが今のインフレは、
賃金や年金の上昇以上に物価が上昇しているので、均衡が取れていないのです。なので多くの人々の生活が苦しくなっているのです。
しかし令和の米騒動の時以来、抗議の声はあまり聞こえなくなって来ました。どうしてなのか?、私は全ての物価が上昇している
から、ではないか?と思っています。コメだけじゃなく何もかもですから、上がるのが当たり前になり、諦めるしかないのですよ。
上昇の原因も最初はトランプ関税だったのが、今では中東情勢に変わっています。つまりどこに抗議していいのか、判らなくなって
いる、ということなのです。コメと違って外的要因ですしね。なので抗議の声が聞こえないのです。多くの人々が苦しんでいる中、
その一方で株価だけは、史上最高値を更新し続けているのですよね。貧富の格差だけが、拡大しているのです、、、。
さて前回は、地図オレンジ色の山梨県について、奈良姓偏在の歴史的経緯について説明させて頂きました。要するに、江戸初期に、
群馬県前橋市・渋川市周辺での用水路開削で大成功を収めた総社藩主、秋元長朝の嫡男である秋元泰朝が、幕府の命により山梨県の
谷村藩に赴任し、父親と同様の治水事業を行ったことにより、治水のスペシャリスト集団であった奈良姓農民達が、谷村藩域だった
都留市、大月市、上野原市に、移住したことにより、奈良姓が偏在することになったのだ、という新説でした。
そして今回は、中部・近畿を飛び越えて、香川県です。本来であれば、鎌倉期の三河額田郡(現岡崎市)に新補地頭として入植した
三河奈良氏や三河細川氏の末裔が、現在も残っていそうにも思えますが、残念ながら愛知県は、奈良姓・細川姓とも全国平均値以下
の状況なのです。具体的には、数の多い細川姓でも全国平均値が0.059%なのに対し、愛知県は0.049%と少なく、細川姓の発祥地だ
とされる岡崎市(細川村)では、僅か0.023%となっています。いわんや奈良姓に至っては、愛知県も岡崎市も0.005%と、ほとんど
誰もいない状況になっているのです。私の推測では多分、岡崎の奈良姓農民は、まずは鎌倉幕府滅亡により、共に足利尊氏方として
立ち、細川氏の被官となった武家奈良氏に付き従い、細川姓農民と共に、細川氏の領国、讃岐(香川県)に入植したと考えられます。
更に残っていた奈良姓農民は、豊臣政権末期の徳川家康によって、三河岡崎から豊後国(大分県)の細川忠興の加増された新領地
(杵築郡)へ派遣されたのだろう、と考えています。ですからその後の三河岡崎には、奈良姓、細川姓の農民達が、遂に誰もいなく
なってしまい、現在に至っていますが、逆に大分県では、奈良姓だけは、何故か全国平均値より若干多い分布になっているのです。
また、室町期に、細川京兆家の被官として、東寺の摂津垂水荘(現大阪府吹田市・豊中市)に、下司職として入植していた奈良氏の
末裔達も、現在では全国平均値以下の分布状況になっているのです。多分、讃岐奈良氏の滅亡後に、摂津垂水荘の奈良姓農民達は、
領主の変更に伴い、摂津垂水荘を追われたのだろう、と思っています。⇒多分、西讃岐(旧領)へ移住したかな?
と言う訳で、今回地図の黄色地域は、四国唯一、室町期からの讃岐奈良氏が存在した、香川県になった訳なのです。
⑦香川県:香川県の奈良姓は、県全体で約470人(名字由来.netより)と言われており、県人口は91万5千人ですから、奈良姓の
県平均値は、0.051%で、奈良姓の全国平均値0.0266%より、2倍程高い数値になっていますが、それほど多い数ではあり
ません。でも全国平均値以上なので、掲示の日本地図上では黄色に表示されている訳です。県内で、奈良姓の比率の高い
地域は、仲多度津郡まんのう町で0.45%と最も高く、次に善通寺市で0.234%、木田郡三木町で0.18%、それから坂出市
が0.08%、丸亀市が0.063%と続き、県都高松市でも0.038%と、奈良姓の全国平均値よりは高い数値になっています。
逆に、東かがわ市や観音寺市は、奈良姓の割合が非常に小さくなっています。さてこのような奈良姓の県内偏在の理由
を、歴史的には、一体どのように考えれば良いのでしょうか?
ちなみに細川姓の方は、全国平均値が0.059%なのに対し、香川県の平均値は0.483%と、ダントツに多くなっています。
やはり一時的だったにせよ、細川氏の領国であったので、細川姓農民の移住も活発であったことが推測されるのです。
この香川県における奈良姓の存在については、やはり細川京兆家の被官、讃岐奈良氏について書かれている「讃州細川記」
や「西讃府志」の記述から読み解くのが正しいと考えられます。すなわち、元々東国出自の三河額田郡岡崎の鎌倉御家人
であった細川氏と奈良氏が、南北朝の動乱期に足利尊氏方として共に立ち、頭角を現した細川頼之・頼元兄弟の被官と
なり、高屋合戦の後、奈良太郎=奈良五郎左衛門(東寺百合文書より)が宇多津の聖通寺城主として、宇多津・那珂の地
に領地を得た時点から、讃岐奈良氏による入植は、始まったのだと考えられます。
「南海通記」や「西讃府志」によれば、讃岐奈良氏の領国支配は、細川京兆家の被官として、戦国期の天正十年(1582年)
に、長曾我部元親によって讃岐奈良氏が滅ぼされるまで続いたとされています。なので多くの奈良姓農民達が、200年間に
渡って、西讃岐地域に土着していたのだろう、と考えられるのです。右掲示文書が「西讃府志」奈良氏の項です。
更に「西讃府志」には、讃岐奈良氏は、摂津の垂水荘にも領地を持っていたので、長曾我部氏との戦では、戦災を逃れて
垂水荘に避難していた讃岐奈良氏の子孫達も、秀吉の四国平定後には、ひっそりと宇多津に戻った、と記されています。
しかしこの時点では既に、領主ではなくなっているため、奈良姓農民一族は、旧領地を離れ、宇多津の沿岸部ではなく、
より内陸部の仲多度津郡まんのう町や、善通寺市、木田郡三木町などに、散らばって行ったのだろうと思われます。(掲示
地図をご確認下さい。)だからひっそり、なんですよ。
まあ戦国期までは、武士=農民(国人農民)ですから、敗北した後は、秋田の鹿角の事例(九戸の乱)のように、国人
農民の大移動があったハズなんです。ただ、讃岐奈良氏を滅ぼした長曾我部氏は、豊臣秀吉によって、すぐに敗れ去って
しまっていますから、奈良姓農民の逃避移動は、さほど大きくはなかっただろう、とも思われるのです。
その結果、現在の香川県における奈良姓の人々の偏在は、西讃岐地方の内陸部を中心として、比較的広範囲に広がって行
ったのだろうと、考えられる訳なのです。まあ戦国期から、450年も経っていますからね。
ただしかし、東国出自の細川京兆家の被官、奈良氏の讃岐入国から讃岐奈良氏が始まり、その後奈良姓農民が、宇多津の
地から、西讃岐全域に広く定着して行ったこと自体は、間違いのない史実なのです。(翌々週の次回へ)
※毎週毎週のブログ更新が、歳とともに厳しくなって参りましたので、次回からは翌々週の6月20日の更新予定とさせて
頂きます。悪しからず、ご了承下さい。




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