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全国の奈良姓分布の歴史、各県それぞれのまとめⅢ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。よくネトウヨ連中から

は、オールドメディアと揶揄される、大手新聞やテレビなのですが、確かに読者や

視聴者は、年寄りばかりになり、若い世代は、新聞もテレビも見ない状況になって

来ました。何故なのか?、新聞は、わざわざ購読しなくとも、ネットニュースの閲覧

で事足るし、テレビは面白い番組がひとつもないから、と良く言われます。でもこの言い訳、本当なんでしょうかね? 私は少し違うのでは?、と思っていますよ。

新聞を読まないのは、新聞購読料が高くて払えないからであり、テレビを見ないのは、スマホ代で一杯一杯なので、テレビを買い受信料を支払う余裕がないからだろ、

と思っています。要は貧乏なので、新聞もテレビも、見ることが出来ないのですよ。

そう、やせ我慢の屁理屈で、コスパ重視と言い換えているだけ、のことなのですよ。

実は若者の貧困化の問題なんです。非正規社員が多いですからね、、、。

 

 さて前回は、全国の奈良姓分布の歴史のまとめとして、北海道・青森県に続き、赤色の秋田県を取り上げました。戦国末期に

九戸の乱で農民として逃亡・入植した秋田県内の奈良姓偏在の理由、そして現在もなお、鹿角市に奈良姓が多い理由についても、

見て参りました。

今回は、少し南に下り、オレンジ色の群馬県、江戸前期に治水・新田開発のために動員された、前橋市と明和町の、奈良姓農民

の偏在への歴史について、まとめてみたいと思います。

 

④群馬県:現在の群馬県の人口は187万人で、奈良姓の人口は約2100人(名字由来net.より)と言われておりますので、県の

     奈良姓人口比率は0.112%でして、全国平均値0.026%より4倍以上も高くなっていますので、掲示地図もオレンジ色

     になっている訳です。そして注目すべき点は、奈良姓が県内にまんべんなく散らばっているのではなく、特定の地域

     に限定して偏在している、という点なのです。即ち、渋川市(0.36%)と前橋市(0.34%)だけが異常に突出して

     いる偏在なのです。前橋市のお隣りの高崎市は、僅か0.024%であり、奈良姓の割合は、全国平均値と同じな訳です。

     まあもう1箇所、邑楽郡明和町(何と2.5%!)という超異常地域があるんですけどね。 これらの奈良姓の偏在の

     理由を、歴史的にどう見るのか?、なのです。

 

     以前のブログで、江戸前期(1602年~1604年)、前橋総社藩主秋元長朝による天狗岩用水の開削に、武蔵国幡羅郡の

     奈良村農民達が動員され、天狗岩用水が完成したのだ、とする説を書かせて頂きました。秋元長朝は元々、深谷上杉

     氏の家臣でしたから、古くから奈良用水を開削運用していた近所の奈良村農民のことを、良く知っていたのでした。

     ※ちなみに深谷市と熊谷市は、地理的にお隣り同士なんです。

     そして、1597年(慶長2年)に最初に完成した荒川から取水する奈良堰(奈良用水)の評判を聞きつけた秋元長朝は、

     彼らの持つ治水技術を生かそうと、1601年に赴任して来た総社藩(前橋市)で、利根川上流にある白井藩(現渋川市)

     と協力して、天狗岩用水開削のために、奈良村農民達をスカウト動員したのでした。条件は、3年間年貢免除!でした。

     しかし何故、秋元長朝は、利根川上流の他藩である白井藩と、協力することが出来たのか?なんですが、元々白井領の

     城主は上杉氏(長尾氏)で、その後江戸期に入り徳川譜代の本多広孝・康重親子の領地になっているのです。が、譜代

     大名ですから白井には赴任していないのですね。なので、元々上杉氏家臣だった秋元長朝は、白井藩の領民と、話しが

     付け易かった、と思われるのです。白井藩の領民にとっても、新用水路によって新田が増えることは大歓迎ですからね。

     こうして3年間年貢免除という好条件により、天狗岩用水は工事開始から僅か2年の1604年に完成し、藩の大増産の先駆け

     となり、その評判は、関東代官伊那忠次や徳川家康にまで、届く事になったのでした。

     注目の的である奈良村農民を、関東大改造を計画している徳川家康や、代官伊那備前守忠次が、見逃す訳がないのです。

     最初は、暴れ川利根川の洪水に悩まされていた埼玉郡の忍城主松平忠吉が家臣に命じて、1594年に利根川の分流部で

     ある会の川の流頭(埼玉県羽生市上川俣)が締め切られました。これが利根川東遷事業の始まりとされています。しかし

     この堰き止め工事はうまく行っておりませんでした。大雨が降って利根川の流量が増大すると、堤が決壊し、洪水が頻発

     していたからです。会の川を締め切るだけでは、問題解決しなかったのです。即ち利根川分流部の対岸(邑楽郡明和村)

     側も、治水工事をする必要があったのでした。これに気付いた関東代官伊那忠次は、天狗岩用水を成功に導いた奈良村

     農民に目を付け、彼らを邑楽郡明和村の治水工事に動員したのでした。こちらの動員も成功したため、伊那備前守忠次

     は、新たな利根川東遷・荒川西遷工事の度に、奈良村農民達を動員することになったのでした。つまり、奈良村農民達

     は、伊那備前守忠次一族の、下請け集団になったのでした。それが証拠に、天狗岩用水路は、いつの間にか、備前堀?

     とか代官堀とか呼ばれるようになったからです。埼玉の話しになってしまいますが、奈良村農民達が初めて完成させた

     奈良堰(奈良用水)も、1604年?完成と伊那忠次の指揮により完成したとの伝説になっていますし、本庄市の備前渠

     用水路も、1604年に伊那備前守忠次によって作られた!とされているのです。伊那忠次は、スーパーマンではありま

     せんよ、単に他人の手柄を横取りしただけ、なのです。

 

     まあそれはさておき、最初は秋元長朝の天狗岩用水によって前橋市と渋川市に動員され、その後、伊那忠次の利根川

     東遷事業で、邑楽郡明和町に動員された結果、これらの県内3地域に、多数の奈良姓が偏在することになったのです。

     (次回へ)