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全国の奈良姓分布の歴史、各県それぞれのまとめⅡ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

日経平均が6万3000円を突破しました。異常な高値だと思います。原因は、毎日コロ

コロ変わるトランプ発表のイラン情勢に対して、欲の皮の突っ張った頭の悪い投資家

達が、希望的観測のみで一喜一憂しているだけの株価だからです。何の根拠もない、

トランプバブルですよ。いくら為替介入しても、一向に上昇しない円安を見ていれば

判りそうなものなんですけどね。どこまで持ち堪えられるのか?、だと思われます。

バブル破綻で、NISAの少額投資者達が、多分、数多く被害を被るのでしょうね。

 

 さて前回から、各県ごとの奈良姓の人口比分布を基に、何故このような地域による

奈良姓の偏在が起きているのか?を、歴史的経緯の中からまとめさせて頂いており

ます。前回は北から、色の濃い、北海道、青森県を見て参りましたので、今回は同じ

東北地方でも、前回の青森県とは傾向が異なると考えられる秋田県の奈良姓の、地域

ごとの偏在の理由を、歴史的経緯にまとめてみたいと思います。秋田・青森と、ひとくくりにされがちな、お隣り同士の両県なの

ですが、奈良姓の偏在における歴史的事情は、実はそれぞれの地域ごとに、かなり異なっているのですよ。

 

③秋田県:秋田県の奈良姓人口は、約2300人で、県の人口は87.3万人ですから、人口比率は0.26%です。まあ全国比率よりは10倍も

     高いのですが、青森県よりは奈良姓の比率は小さくなっています。人数が最も多いのは、県都秋田市ですが比率は0.21%

     に過ぎず、県の平均を下回っています。ではどこの比率が高いのか?と言うと、やはり鹿角市でありまして、何と2.35%

     も存在しているのです。また大館市も0.96%、潟上市も0.66%、北秋田市も0.61%と、高い比率になっています。ところが

     一方で、横手市では僅か0.013%、大仙市でも0.028%という少なさになっています。同じ県内でも現在の人口に関係なく、

     地域による大きな差異が存在するのです。この偏在理由を、どのように理解すれば良いのでしょうか?

     一番の理由は、青森県の状況と同様で、戦国末期に鹿角を襲った、九戸政実の乱の影響だと思われます。以前のブログで、

     秋田市金足の豪農奈良家は、九戸の乱で鹿角から逃れて来た鹿角奈良氏の末裔であると、書かせて頂きました。戦国期の

     彼らは、農民でもあり武士でもありました。小作農ではなかったのです。なので、南部氏の追及から逃れなければならな

     かったのです。そこで大湯村の惣領家一族は津軽へ逃れ、津軽氏に仕官しました。(鹿角由来記より、)つまり青森県で、

     武士として生き延びた訳なのです。

 

     その一方で、新斗米村や小枝指村、小平村、瀬田石村、芦名沢村の奈良氏一族は、一族として多くは、秋田へと逃れたの

     だと考えられるのです。これらの村々は本名が奈良の村で、鹿角奈良氏の庶流一族の村々だからです。(鹿角由来記より)

     即ち、津軽へ落ち延びた奈良姓は、武士として生き延び、秋田へ逃れた奈良姓は、農民として生き延びる道を探ったと、

     考えられるのです。私は、武士か農民かの選択は、奈良姓一族内の、本家と分家の意識の違いと、九戸の乱の際に、武士

     として戦ったかどうかで、逃避地が、津軽と秋田に分かれたのではないか?、と考えています。

     現在の鹿角は秋田県内ですが、鎌倉期~戦国末期までは、在地領主(鹿角四頭)による、半独立王国だった訳なので、

     南部氏(岩手)から攻められた場合は、津軽か秋田に逃れるしか、選択肢がなかったのでした。そして彼らの秋田への

     逃走経路は:鹿角⇒大舘市⇒北秋田市⇒潟上市⇒秋田市へ、という経路を辿り、最後まで到達した秋田市金足の奈良家が、

     江戸期に、大豪農として大成功を収めた訳なのです。ですからその逃走経路沿いに、奈良姓の高い比率が、定住の痕跡と

     して残っている訳なのです。なので潟上市の豊川にも、奈良姓の集落がありましたよね。(奈良環之助氏の手記より、)

     ですから逆に、逃走経路沿線以外の県内各地域は、奈良姓の人口比率が小さいのです。

 

      しかしこのように考えると、逆に一つの疑問が湧いて来ます。それは鹿角から多くの鹿角奈良氏が脱出したのに、何故

     これ程多くの奈良姓が、現在も鹿角に残っているのか?、という点なのです。おかしいですよね?、鹿角市がダントツで

     奈良姓人口が多いなんて、、、だって、九戸の乱で奈良姓の多くは逃げ出したハズだからですね、それが鹿角市がダントツ

     で、現在1番!なんて、おかしいのです。 一体どういうことなんでしょうか?

     その理由は、鹿角由来記を読むと理解出来ます。鹿角の各村では、村の名主(領主)が村名を姓として名乗り、村ごとに

     本名(成田、奈良、安保、秋元)がある、と書いてあるからです。なので、九戸の乱後に大湯村に進駐して来た南部氏系

     の家臣も、大湯五兵衛を名乗っている訳です。(鹿角由来記より)

     この鹿角独特の風習・慣習は、明治期になるまで続きました。ですから大湯村、新斗米村、小枝指村、小平村、瀬田石村、

     芦名沢村に生まれた人々の多くは、明治以降も、本名:奈良!を名乗ったのですよ。これが現在でも、鹿角市に奈良姓が

     多い理由なのです。ですから、奈良姓だけでなく、成田姓も安保姓、秋元姓も、何故か、鹿角市内には、多いのです。

     なので以前のブログで取り上げた、鹿角市大湯村生まれのこけし作家、奈良靖規や奈良吉弥は奈良姓ですし、奈良吉弥の

     師匠である木地師で鹿角市毛馬内村生まれの成田七郎は、成田姓なのです。成田七郎なんて、まさしく吾妻鏡に登場する、

     鎌倉期鹿角四頭の?、ご先祖様の名前ですよねえ。毛馬内村の人々は、吾妻鏡を読んでいたのでしょうかねえ?、、、、

     (次回へ)