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大分県(豊後)の奈良姓の人々について、

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 

 イラン戦争による物価上昇は、更に拡大する見込みです。石油

製品だけではなく、全ての物価ですよ。最近下落傾向だった米価

も上昇傾向に転じているのはご存じですかね? つまり、世の中

全ては繋がっているのですよ。日本だけ、自分だけの安全・安心

なんて、実は存在しないのです。特に我々年金生活者は、これから

長い耐乏生活が続くことを、強く覚悟すべきだと思いますよ。

 

 さて前回は、奈良姓の歴史の中で課題として不明となっていた、

現在の埼玉県における奈良姓の偏在問題について、新たな推論を

展開させて頂きました。キーマンは、やはり徳川家康でした。

そして今回は、同様に、今まで良く判らずに避けていた、大分県(豊後)の奈良姓についての考察なんです。

何故大分県(豊後)なのか? 実は各種の名字(姓氏)サイトによると、奈良姓が多い地域として、関東の埼玉、群馬、山梨、

東北の秋田、青森、関西の大阪府、四国の香川については、これまでに何度も、このブログで取り上げて来ました。全て顕著に

奈良姓の割合が多い地域だからです。しかし1箇所だけ、取り上げて来なかった地域があります。それが九州の大分県(豊後国)

なのです。実はそれほど多いと言う訳ではありません。しかし全国平均と比較すると、やはり統計学的有意に、多い数値になる

のです。具体的には、奈良姓の全国平均値は、0.026%です。これに対し大分県は0.045%、特に宇佐市は0.20%も、なのですよ。

元々人口が多い大分市でも奈良姓の割合は、全国平均値に比べて高いのですが、宇佐市や杵築市近辺が、特に高くなっています。

しかし九州で大分県にだけ、何故奈良姓が多いのか?、今までは良く判りませんでした。武家奈良氏と大分(豊後)の繋がりの

記録が全くなかったからです。奈良姓農民の移動を伴うような大規模公共工事も、大分県(豊後)では、ありえない話しでした。

なのでこの奈良姓ブログでは、大分県に奈良姓が多いにも拘わらず、大分県(豊後)については書けなかったのでした。

 

 ところがです、前回までのテーマで、江戸町年寄奈良屋市右衛門の素性を調べた際に、江戸(関東)を開発した徳川家康が、

様々な人々を江戸へ連れて来ていることを発見しました。三河明大寺村(岡崎)の農民、奈良屋市右衛門も、その一人だった訳

です。同様の事例は、大阪佃の漁師を、江戸佃島に連れて来ている事からも判ります。利根川東遷の治水巨大工事に、奈良村の

農民達を動員したのも、家康の意向だったと思われます。家康とは、それまでの権力者が、戦で人々を動員していたのに対して、

巨大公共事業(新たな戦?)のために、人々を動員する人物だった訳なのです。

 

そのような視点で家康の動きを見ていると、豊後国で、家康による小さな動きがありました。豊臣政権末期の慶長五年(1600年)

2月、大老徳川家康は、丹後国領主細川忠興に対し、 豊後国速水郡と杵築廻り6万石を、加増しているのでした。(松井家譜より)

※関ケ原の合戦前で、秀吉は既に死んでいます。 が、まあどうでもいいような記録に思えます。本領は丹後(京都府北部)です

 からね、大老徳川家康による、細川氏懐柔作戦(お小遣い?)の一環と見られます。奈良姓に何の関係があるのでしょうか?

 

で、細川忠興とは、鎌倉期から続く名門細川氏の分家筋で、肥後(熊本)細川家の初代になる人物です。奥さんは明智光秀の娘、

細川ガラシャですね。父親は15代将軍足利義昭の側近、細川藤孝(幽斎)です。父子とも、家康とは仲が良かったようです。

その理由は何故か?、 実は故郷が同じだからだ、と私は考えます。家康は無論、三河岡崎の出身です。で家康は、細川藤孝が

将軍足利義昭の側近だったことから、藤孝を細川京兆家と重ね合わせたのだろう、と思うのです。そう考えると、細川京兆家の

遠い故郷は、一体どこでしょうか? そうです、三河国細川村=岡崎なんです。家康は細川父子を、自分と同郷の家系だと考えた

訳なのです。 ※本当は細川藤孝は、細川氏系ではなく、三淵氏系である、との有力説もあるのですがねえ、、、。

そこで家康は、細川忠興に豊後国速水郡と杵築廻り6万石を与えた際に、おまけとして?、信頼出来る三河岡崎の半農民を付けて

贈ったのですよ。その三河岡崎の半農民こそが、三河明大寺村(岡崎)の奈良姓農民だった訳です。派遣の目的は、現地領民との

橋渡し役としてです。江戸に連れて来た、江戸町年寄り奈良屋市右衛門の役割と、良く似ていますよね。こうして大分県宇佐市

や、杵築市に派遣された奈良姓農民達が、何と400年を経た現在まで、現地で根付き、続いて来ている訳なのです。

細川忠興は、直後の関ケ原の合戦後すぐに、丹後国から豊前国へ加増国替えになっています。でも以前に拝領した、豊後速水郡と

杵築廻りの領地は、家康によって守られたのでした。ちなみに、大分県内で、細川姓の多い地域も調べてみたのですが、奈良姓と

同様に、宇佐市、杵築市に多いことが判りました。もしかすると、奈良姓農民と同様の理由で、家康により、三河岡崎の細川村

からも、農民が派遣されて来たのかも知れません。

無論これらの説は、大分県の宇佐市や杵築市に、何故か奈良姓・細川姓が多い理由の、単なるひとつの仮説に過ぎない訳なんです

が、それなりに説得力のある説であるとは思われます。

と言う訳で、この大分県を最後に、日本各地の奈良姓の多い地域についての理由付けは、ある程度完了したと考えられます。

いかがでしょうか? (次回へ。)

 

※なお来週、4月25日(土)のブログ更新は、諸事情により1週間延期をさせて頂きます。悪しからずご了承下さいませ。