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埼玉県(武蔵国)の奈良姓の人々についてⅡ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。

イラン戦争は、トランプの窮余の策で、停戦合意が成立しています。しかしコレ、真の目的は、原油価格・株価対策だと思います。

原油が安くなり、株価が上昇した時に、売り抜けるためです。愚かな石油・株業界は、トランプの一言一言に、右往左往している

から、ですね。トランプは、儲けるチャンスとしか思っていませんよ。再びこの戦争は、再開されるハズだと思われます。

トランプには、戦争でさえ、自分の商売のための、ギミック(からくり演出:プロレス用語)でしかないからです。

 

 さて前回は、新たなテーマとして、埼玉県(武蔵国)における現在の奈良姓の人口分布の偏りが、どのような理由で引き起こされ

たのか?を、江戸初期の徳川家康(伊那忠次)による荒川と利根川の治水事業の歴史から見て行こうとする仮説について、書かせて

頂きました。今回は、その続きです。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の命により徳川家康は、新領地である江戸入府を果たし、関東の開拓を開始します。江戸の洪水対策と

して、家康と関東代官伊那忠次が、最初に取り組んだのは、文禄3年(1594年)の会の川締切り(利根川東遷事業の始まり)でした。

しかしこの大河の付け替え工事は、簡単には成功しませんでした。締切りがうまく行かず、洪水が繰り返されたのでした。

そんな中、慶長二年(1597年)、荒川からの最初の取水口となる奈良堰(奈良用水路)が、奈良村農民達の手により完成しました。

この奈良堰が大成功したため、玉井堰、大麻生堰、成田堰と次々と荒川沿いに用水路が作られ、「大里郡用水六堰」と呼ばれるように

なりました。(左側図参照)この時、最初の奈良堰の堰を切った(テープカットした)のは、多分、関東代官伊那忠次だったと思われ

ます。何故なら、慶長九年(1604年)に大里郡用水六堰を作ったのは、伊那忠次(備前守)だ!と、伝承されて来ているからです。

(新編武蔵風土記稿より) ※しかしコレ、新編武蔵風土記稿のウソですよ。単なる完成年でしょう、本当に開削したのは、地元の

農民達ですよ。それも何世紀もかけての工事で、です。(元々の奈良用水路の最初は、多分平安期に、郡衙のあった別府村の湧水地

から奈良村へと、用水路を引いたのが最初であろうと、私には考えられます。)

 

この奈良堰の成功実績が認められ、伊那備前守忠次は徳川家康に、荒川・利根川の洪水対策と新田開発を目的として、荒川西遷・

利根川東遷事業を進言し、奈良村農民達にも動員の白羽の矢が立ったのでした。(無論、奈良村農民だけじゃあないハズですが、)

以前のブログでもご紹介させて頂いた、慶長七年(1602年)から始まった、前橋総社藩秋元長朝による天狗岩用水の開削事業や、

その後の利根川東遷事業での群馬県明和村での入植事例、更にその後の山梨県の谷村藩での治水事業などでも、奈良姓農民達が、

家康(伊那備前守忠次とその子孫)によって動員されたことを、ご紹介させて頂きました。(現在もこれらの地域に、奈良姓人口が

偏在しているからです。)動員の条件は、総社藩の天狗岩用水開削時の条件として「秋錦禄」に記録のある、「3年間年貢免除!」と

同様の条件だったのだろう、と思われます。且つその後は、広大な新農地が手に入る訳ですから、参加しない手は無いのですよ。

と言う訳で、これだけ江戸初期の治水・新田開発事業地域に、奈良姓農民達が偏在している事実を考えると、仮説ではありますが、

奈良姓農民達が江戸幕府(関東代官伊那氏一族)によって、指名選抜動員されていた、と考える方が、自然であろうと考えられる

訳なのです。

 

 さてそこで、久喜市・加須市地域なのですが、右掲示地図をご覧下さい。利根川東遷事業を河川付け替えの地図で表したものです。

まず加須市は、1594年に河口が締め切られた会の川沿いに位置しています。そして久喜市は更に南下し、旧利根川が、古利根川に

なった地域にあることが判ります。暴れ川であった旧利根川が、治水可能な古利根川に変わったのです。もしこの状況で、農民達が

動員されたとすれば、その目的とは何でしょうか? そうです、新田開発なんです。旧会の川、古利根川沿いの、加須、久喜地域の

用水路を整備し、堰を作り、新田開発をするために、奈良姓農民達が動員されたのでした。と、このように考えると、加須・久喜の

地域に奈良姓が多い理由に説明がつくのです。(※無論、奈良姓以外にも、動員に参加した他村出身農民は、いたハズですが、調べて

おりません。)

こうして幕府による動員が繰り返された結果、逆に幡羅郡奈良村(上奈良村、中奈良村、下奈良村、奈良新田村)には、奈良姓を

名乗る出身農民が、遂に誰もいなくなってしまったのでした。まあ領主も変わっていましたからね。

ちなみに、加須・久喜地域には、幡羅郡の奈良村近隣各村の出自と思われる、成田・別府・玉井姓などの人々は、ほとんどいない

点も、申し上げて置く必要があると思われます。人口比率が突出しているのは、何故か奈良姓だけ、なのですよ!。

この点からも逆に、奈良姓農民達だけが、治水・新田開発に長けた一族であったことを、物語っているのだと思われるのです。

と言う訳で、埼玉県内における奈良姓人口の偏在理由は、以上のように考えられるのでした。 (次回へ。)