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4月新年度になりました。イラン戦争も続いていて、物価の大幅上昇も予測され、苦しい耐乏生活が始まりそうです。そんな新年度
から、自転車の交通違反の新反則金(青切符)制度が始まっています。マスコミなどでも広く告知されていますね。まあしかし、
人手不足の警察が、実際に走行中の自転車を一斉に取り締まる?などとは、考えられないのです。なので心配する必要はありません。
しかし注意は、する方が良いのですよ。気を付けるべきは警察じゃないんです。例えば、雨の日に歩道を傘をさして走行していると、
通行を妨害されたと言う理由で、交通違反で訴えられる!かも知れないのですよ。つまり告発者は見ず知らずの通行人で、あなたに
罪の意識は無いのですけれどね。このような新制度が出来ると、悪意を持った人間がSNSによる誹謗中傷のようなやり方で、あなた
を告発して来る可能性が、出て来る訳なのです。ギスギスして理不尽で、すさんだ世の中ですから、敢えて注意が必要なのです。
さて前回までは、江戸前期の豪商?奈良屋茂左衛門と、徳川家康によって三河より呼び寄せられた江戸町年寄の筆頭、奈良屋
市右衛門との関係性について、独自の考察をさせて頂きました。奈良茂左衛門は、幕府の操り人形であった、という新説でした。
そこで今回は、徳川家康との繋がりで、現在の埼玉県で、何故か奈良姓が偏在している地域について、その原因・理由を、考えて
みたいと思います。武蔵国幡羅郡奈良村(現熊谷市)と言えば、鎌倉武士団奈良氏の発祥の地ですよね。 ところが、なのです。
何故か武家奈良氏の発祥の地である熊谷市の奈良地区には、現在奈良姓がほとんどいないのです。熊谷市全体でも、僅か30人ほど
なのですよ。(※人口比率、僅か0.015% 全国平均値以下!)これでは、武家奈良氏の発祥は別としても、とても奈良姓発祥の地
の奈良村だ、などとは、とても言えませんよね。(※奈良姓の人口数については、名字由来netさんよりデータ拝借しました。)
ところが何故か、奈良村から20Km程東に移動した加須市・久喜市周辺だけには、現在非常に多くの奈良姓が存在しているのです。
埼玉県内には現在、約3700人の奈良姓がいて、人口は731万人ですので、人口比率は僅か0.05%に過ぎません。(まあ、県都である
さいたま市が大多数です。) ところが県の東部、久喜市には、約430人の奈良姓がいる訳ですが、人口比率は、何と0.29%なのです。
同じく加須市も0.29%で、奈良姓の比率が異常に高いのです。人口比率が高いと言う事は、この地域で奈良姓の人々が、相対的に
繁栄したことを意味しています。でも彼らは武家奈良氏ではありません。この地域には、武家奈良氏の歴史的痕跡が無いからです。
従って、この地域の奈良姓の人々は、元々農民であったと考えられます。しかも彼らは、奈良姓を名乗っている以上、武家奈良氏や
幡羅郡奈良村に、ルーツを持つ人々であろうと、考えられるのです。彼らの偏在を、一体どのように考えたら良いのでしょうか?
私は以前のブログで、鎌倉後期に、幡羅郡奈良村(現熊谷市)を本拠とする御家人奈良氏が衰退没落したと、書かせて頂きました。
ですから、奥州鹿角の奈良氏や、讃岐・摂津の奈良氏は生き残りましたが、武蔵国の武家奈良氏は、歴史から消えて行ったのです。
そして武家奈良氏(地頭)は、関東からいなくなりましたので、奈良氏配下?の奈良村の農民達も、移動を余儀なくされたのでは
ないか?、と考えておりました。久喜市や加須市に奈良姓が多い理由を、武家奈良氏の衰退から考えたのでした。しかしこの考え
には、根拠がありませんでした。推測に過ぎなかった訳なのです。結局いくら領主が変わっても、土地に根差した農民達は、命の
危険性でもない限り、自ら自分達の土地を離れることはなかったのです。そこで奈良姓偏在の、新たな理由が必要となりました。
そこでひとつカギとなるのが、奈良姓農民達が、治水技術に優れた人々であったと言う点なのです。奈良村を含む幡羅郡の農民
達は、古代より湧水地を開拓し、農業用水路として福川、星川、忍川等を開削整備し、治水・新田開発を進めて来た歴史を持つ
村民達でした。治水・新田開発の、スペシャリスト集団だった訳です。そう考える根拠は、奈良堰(ならせき)の存在からです。
奈良堰とは、1602年(慶長七年)、関東代官伊那備前守忠次によって開削された?と伝承される、最初の荒川からの農業用水路の
取水口(堰)の名称です。何故慶長七年か?と言うと、「新編武蔵風土記稿」に慶長七年に作られた?と、書いてあるからです。
この取水口が伸びて行き、各村を経由して奈良用水(奈良川)は、奈良村へと至っています。(左掲示図参照、) でもコレ本当に、
伊那忠次(徳川家康)によって開削されたのですかね?、また、本当に1602年なんでしょうかね? 私はこの点に疑問を持っている
んです。堰の場所は、深谷市と熊谷市の境界の旧明戸村です。ここから奈良用水が三ヶ尻村⇒玉井村⇒別府村⇒奈良村を通っていて、
その後福川に出て、最後は利根川に繋がっているのです。何故名前が奈良堰なのか?、場所は明戸村にあるのですから、明戸堰で
良いではありませんかね?また各村々を巡っているのに、どうして奈良川(奈良用水)って言うんですかね?私は江戸時代以前から、
奈良村の人々は、この地域の治水事業を担っていたからではないか?、と考えます。もっと言えば奈良村の人々は、古代から延々と、
荒川・利根川の水害・渇水と対峙して、治水・新田開発事業を続けて来ていたのです。ですから奈良堰以前から、この試みは延々と
続いていたハズ、と考えるのです。そこで別資料(国交省荒川上流河川事務所、荒川の歴史)を見ますと、1597年(慶長二年)に、
最初の荒川取水口である奈良堰が作られた!とあるではありませんか。私はこちらの年代の方が正しいのではないかと考えます。
何故なら、伊那忠次(備前)は1602年(慶長七年)に、あまりに多くの工事実績を挙げていることになっているから、なんです。
最初は文禄三年(1594年)の、会の川の締切り(利根川東遷工事の始まり)でした。これだけでも十年はかかる超巨大工事ですよ。
そして慶長七年(1602年)には、何と上野国総社藩主秋元長朝と組んで、天狗岩用水の開削を開始しているのです。で、同じ年に、
奈良堰用水が、伊那忠次(備前)によって完成したことになっている訳ですが、実は、お隣りの玉井堰用水も、同じ年に完成したと、
新編武蔵風土記稿には書いてあるのです。いくらなんでも無理です、伊那忠次(備前守)はスーパーマンではありませんよ。
特に、堰とは、最初に掘削するものではありません。用水路の掘削工事が完了して、最後に堰を切るのです。テープカットみたいな
儀式です。つまり用水路自体は、堰を切るずっと以前から、既に存在していた、と考えられるのです。では誰によって掘削された
のか?、伊那忠次(備前)の号令によって、ではありませんよ。ずっと以前から、奈良村の農民達によって掘削され続けて来たから、
奈良堰、奈良用水(奈良川)と呼ばれて来たのです。
また、堰は一度作っても、洪水が来れば、またすぐに埋まってしまいます。従って伊那忠次が、慶長七年(1602年)に堰を切る儀式
でテープカットをしたとするなら、それは多分、数世紀に渡る、何度目かのテープカットだったハズに違いないのです。
つまり関東代官:伊那備前守忠次とは、奈良村村民等の、治水工事に長けた農民達を見出した功績を、称えられた人物なのです。
と言う訳で、奈良村農民達が作った奈良堰・奈良用水は大成功を収め、この結果は、伊那忠次を通じて、徳川家康へも報告される事
となります。何せ、荒川西遷・利根川東遷事業は、徳川家康(伊那忠次)による関東最大の巨大業績、と言われていますからね。
さて、その後の奈良村農民達の運命は、一体どうなったのでしょうかね?(次回へ)



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