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歴史の流れは不明なれど、名前の残った奈良姓の人々。Ⅲ-②

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

先日始まったイスラエル・米国とイランの戦争は、まだ続いていますね。今度はホルムズ海峡封鎖で、石油が入って来ないそうで

、国中大騒ぎになっています。大昔にも石油ショックがあり、何故かトイレットペーパーが無くなりました。先日までは、中国の

制裁措置による、レアアース問題で大騒ぎしておりました。結局昔辿った道ですが、戦争によって解決を図るしかないのでしょう

かね? 例えば、石油やレアアースが無いのなら、無いなりの倹約生活を送る、と言う選択肢は無いのでしょうかねえ?、、、

世の中は、貧富とか正邪とか勝ち負けとかの、二極世界じゃあないと思うのですがねえ、多元社会じゃあダメなんでしょうかね?

 

 さて前回は、江戸の開府時に、江戸の町人支配のために得川家康より任命された3人の町年寄の筆頭、奈良屋市右衛門について

見て参りました。しかしこの人物の素性は、江戸初期の重要人物でありながら、色々調べてみても、まるで判らないのでした。

そこで今回は、初代奈良屋市右衛門の出自(ルーツ)について、大胆な仮説を展開してみたいと思います。で、今回の掲示図は、

何と地図です。左側の地図は、以前のブログでも掲示させて頂いたのですが、ご記憶はありますでしょうかね? 実はこの地図、

現愛知県岡崎市の中心部、明大寺町奈良井の地図なのです。いつの時代のブログか?、と申しますと、鎌倉後期~鎌倉幕府滅亡

にかけての時代で、三河奈良氏が三河細川氏と出会い、被官となる状況の説明で、使わせて頂きました。つまり史実としては、

細川村出身者である細川氏第6代細川頼之・頼元の家臣として、奈良五郎左衛門が既に登場している(東寺百合文書)訳ですが、

故郷の三河時代から、細川氏と奈良氏は近所同士の御家人仲間だった、とするブログ趣旨で、この地図を使用させて頂きました。

つまり承久の乱での恩賞(新補地頭)として、細川氏は額田郡細川村に、奈良氏は額田郡明大寺村(矢作東宿)に、それぞれ領地

を得たと考えた訳なのです。その後鎌倉幕府滅亡に伴い、奈良氏は細川氏に付き従い、足利尊氏方として戦ったのでした。そこで

三河奈良氏の本拠地として提示したのが、左側:岡崎市明大寺町奈良井の地図でした。(※小字に奈良井の地名が残っています。)

 

 しかしこの事と、徳川家康や奈良屋市右衛門に、一体何の関係があると言うのでしょうか? そこで右側の広域地図なのです。

「三年寄由緒」(宮内庁書陵部蔵)には、奈良屋市右衛門は、元々三河時代から家康の家臣だったと書いてある訳です。ところが

三河時代の譜代家臣の史料に奈良屋の名前が見えないので、由緒書きの方がウソ・誇張だろう、という話しになった訳なのですが、

この認識こそが、間違いの元なのです。三年寄由緒の記述は正しいのです。何故そう言えるのか?、この疑問に答えるためには、

徳川家康=松平元康の系譜・流れを辿る必要があるのです。まず最初に押さえるべきは、家康の松平家は、元々は岡崎の領主では

なかった、と言う点なんです。彼の祖父である松平清康までは、矢作川対岸の安城松平家の小領主だったのです。右側掲示の広域

地図をご参照下さい。地図左端にある南部小の付近が、居城安城城があった場所です。で、当時の岡崎は、敵対する岡崎松平家の

領地でした。三河は同族内紛の地だった訳です。ちなみに岡崎城は、地図の右側、中岡崎駅と東岡崎駅の中間の緑地部分です。

そこで安城の松平清康は、岡崎松平家を攻めて岡崎を奪い取り、本拠地を岡崎に移しました。ところがその10年後に尾張の織田氏

を攻めようとしたところ、清康は家臣により暗殺されてしまいます。内紛の再開です。これにより清康の子、松平弘忠(家康の父)

の時代には、農民一揆(一向一揆)などにより、再び本拠地岡崎を、追われてしまったのでした。

その後今川義元の援助により、何とか岡崎に戻ることは出来たのですが、父祖の地である安城は、織田方の領地となり、矢作川を

境界として、織田方と松平(今川)方が対峙する状況になっていたのでした。父弘忠は、1549年織田方の刺客により、岡崎城内で

暗殺されてしまいます。この時幼い家康は、今川義元の人質になっていて無事で、駿府(静岡)におりました。

とこのように、岡崎の領地とは、松平家にとって、かなり脆弱な状況だった訳なのです。そんな中の1560年、桶狭間の合戦により、

今川義元は織田信長によって討たれ、家康は領地である岡崎に戻ることになった訳です。さて岡崎の家臣・領民達は、戻って来た

家康を、一体どう見たでしょうかねえ? 多分、頼りなく、忠義を尽くすべき主君とは見られなかっただろう、と思われるのです。

以前放映された、松本潤さん主演のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、このコンセプトで製作されましたですね。

 

 そんな家康を、温かく迎えた領民代表?がおりました。岡崎城下、明大寺村(現明大寺町)の元地頭、奈良氏の末裔でした。

奈良氏は南北朝期、細川村の細川氏に付き従って、足利尊氏軍に加わった訳ですが、明大寺村の本領農地を守る、農民としての

奈良氏の末裔は、戦国期まで明大寺村の農地を守り続けていたのでした。多分、村の名主的な立場であっただろうと思われます。

ホントか?、と思われるかも知れませんが、同様の例は、摂津の垂水荘(吹田市、豊中市)や讃岐の宇多津(宇多津町)などで、

奈良姓が現代までも続いていることからも、理解出来るのです。領主は変わっても、土地の農民は、生き残り続けるのですよ。

またこの頃(戦国期)、武士と農民の境界はあいまいでした。多くの下級武士は、自分の領地においては農民でしたし、戦国期

なので、戦の際は、農民も簡単に武士になることが出来ました。農民秀吉だって、信長の家臣になっているではありませんか。

と言う訳で、三河岡崎に戻った家康は、明大寺村の奈良氏の末裔を、岡崎の領民代表として、家臣に加えたのでした。それが

天正10年(1582年)だったのかも知れません。ちょうど岡崎町奉行大岡弥四郎が密通していた相手、武田勝頼軍を滅ぼした

時期ですから。まあもっとも、家康の側の事情としても、一揆などが再び起きては困るので、領国(岡崎)領民の安定を図る

目的もあって、奈良姓農民を家臣に加えた訳なのですけどね。

ただ、奈良氏の末裔は農民なので、武士の家臣名簿には載らなかっただけのこと、なのですよ。私は、岡崎城下を束ねていた

岡崎三奉行の下に、奈良氏の末裔家臣兼農民代表が、存在したのだろうと考えています。(武士と農民の間の橋渡し役ですね。)

 

 そして1590年(天正18年)、秀吉の命により江戸入府を果たした家康は、三河岡崎から連れて来た領民代表、奈良氏の末裔の

市右衛門を、江戸の町年寄に任命したのです。その際、市右衛門は武士ではないので、町人名である奈良屋を名乗らせた訳なの

です。江戸町年寄 奈良屋市右衛門の誕生です。 これと似た例では、家康が大阪佃の漁師を江戸に連れて来て、江戸の佃島で

漁業を開発・発展させた例も同様ですね。要は、ゼロからの町づくりの実験を、家康は江戸で実践していた訳なのです。

しかし家康も、江戸がこれほど巨大都市になるとは、思っていなかったと思います。せいぜい岡崎よりは大きい、駿府(静岡市)

ぐらいの城下町になればなあ、と思っていたぐらいだった?と、私には思われますがねえ、、、

 

ちなみに初代奈良屋市右衛門は、領地?として、家康より、現住所で言うと、東京都中央区日本橋本町1丁目の広大な敷地を拝領

しています。江戸町人にとっての超一等地ですね。この土地を分割して江戸の商人などに貸し、代々家賃・地代収入を得ていたと

考えられます。今で言えば貸しビル業ですかね。

 

さてこの仮説、いかがでしょうかね? ただ私の説は、実はこれだけじゃあないんですけどね、、、。(次回へ。)