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歴史の流れは不明なれど、名前の残った奈良姓の人々。Ⅲ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 先週のBMI指数に続き、世界中で円が安くなったお話しの続きです。

遠い昔、小田実が「何でも見てやろう」で、若者の海外放浪旅行を広めた頃、1ドルは360円で、全く弱い通貨だったので、海外旅行

なんて日本人にとっては、所詮夢の話しでしかありませんでした。しかしその後の高度経済成長~バブル期にかけて、円は世界中で、

とてつもなく強くなりました。そんな中、下川裕治氏の「12万円で世界を歩く」が大ヒットし、日本中の若者が「地球の歩き方」を

片手に、バックパッカーとして世界中を放浪するようになりました。日本でもたかが知れた、たった12万円が、海外ではそれなりの

価値があることを、実践で証明したのでした。つまり日本の貧乏な若者でも、日本の国力によって、海外旅行を続けることが出来た、

とも言えるのです。その記憶が、35年以上過ぎた現在でも、日本人の中にまだ残っているのです。弱くなった日本は、もはや世界2位

の経済大国でもなく、世界一の技術立国でもなく、活気あふれる若者の国でもないのです。この現実、早く自覚すべきなのですよ!

 

 さて前回は、江戸元禄期の豪商、奈良屋茂左衛門(四代目)について、見て参りました。屋号は江戸商人にとっては、出身を表す

武士の姓と同様ですから、奈良屋は奈良姓と考えました。実際、身上を潰したとされる五代目の方は、奈良茂左衛門(屋号無し)と

呼ばれていましたからね。アメリカンドリームならぬ江戸ドリームを実現した傑物?として、怪しいところ満載の奈良屋茂左衛門は、

もっと世間に注目されても良いかも?、と思われます。逆に、どうしてこんな特異な人物が、世間に知られていないのでしょうか?

 そこで今回は、同じく江戸期の奈良屋シリーズ?として、奈良屋市右衛門と言う人物を、取り上げたいと思います。が、こちらの

奈良屋も、世間的にはあまり知られていない人物です。 奈良屋で有名なのは、草津温泉の旅館や、奈良の漬物屋や蕎麦屋、青森の

しじみ屋、ぐらいのようですけどね。奈良屋市右衛門って、前回の江戸の豪商、奈良屋茂左衛門と関係のある有名人なんですかね?

しかし実際は、前回の奈良屋茂左衛門(豪商)とは、まったく関係のない?、別人物みたいなんです。 それでも奈良屋って??

しかもこの奈良屋市右衛門とは、本当は、知られざる江戸の有力者(実力者)だったらしいのですよ。 って、誰も知らないのに!

 

 奈良屋市右衛門は、江戸開府以来の代々の世襲名で、3人いる江戸町年寄(奈良屋、樽屋、喜多村)の筆頭名でした。町年寄とは

幕府が江戸の町や町人を統治するシステムの役職のひとつでした。詳細は右側の掲示図をご参照下さい。要は、江戸の町を統治する

筆頭者が江戸町奉行(武士)で、その下に3人の町年寄(町人)がおり、更にその下に多数の町名主(町人)がいて、その下の町内

ごとの地主・家主を管理する、という行政統治システムです。無論、更にこの下には長屋の大家がいて、更にその下の長屋の賃借人、

店の奉公人など、大多数の江戸庶民(貧乏人?)がいたことは、言うまでもありません。しかし悲しいかな、地主・家主以外の江戸

町民は、町政に参加する資格が無かったのです。江戸の町政も領国と同じく、封建制=土地領主制の延長としての、城下町運営方式

だったのでした。農村も同じですよ、村の寄り合いに参加出来たのは、土地持ちの農民だけですから。小作人は非人だったのです。

と言う訳で、江戸の町の行政は、町奉行(武士)の統制・指示の元、一応は、有力町人によって担われていた、と言う事なのです。

その町人の筆頭が、町年寄である奈良屋市右衛門でした。今で言えば、江戸町奉行が東京都知事+警視庁長官だとすれば、町年寄

とは、複数区の区長(中央区+港区+台東区とか)+警察署長みたいな存在でしょうか。※だって僅か3人しかいない訳ですから。

町人身分とは言え、町年寄は、かなりの権力を有していた、と考えられます。何せ業務としては、幕府(政府)・町奉行からの指示

・命令の伝達業務(役所)の他、訴訟や証文の処理(裁判所)、土地建物の管理(地割り役)、火の用心(消防署)・番屋(町の交番)

業務、問屋株仲間の管理(商工会議所)等々、江戸の生活全般の元締め役だったからです。言わば、町奉行(武士)と江戸全町人の

「橋渡し役」であったのだ、と考えられる訳です。

そこで左掲示の絵をご覧下さい。絵のタイトルは「本町薬種店」(今の薬局)となっていますが、そちらは左側の商店です。問題は、

右側の格子で囲っている建物でして、これが江戸の町内にあった「番屋(自身番屋)」です。ここは、町名主らが詰める役所であり、

火消し達が詰める消防署でもあり、岡っ引きの詰める交番でもあり、町内の集会所・公民館でもありました。留置所もあったので、

格子塀で囲われている訳です。町人の側で、この番屋を通して、大江戸八百八町に渡る行政全般を統括していたのが、たった3人の

町年寄だった訳です。しかもこの役職、何と代々世襲制なのですよ。上司であるお奉行様の方は、コロコロ変わるのに、なんです。

では、このように強力な町年寄の筆頭、初代奈良屋市右衛門とは、一体どのような素性の人物だったのでしょうかね?

 

 実はネット等で検索してみても、その素性は良く判らないのですよ。豊臣秀吉の命による徳川家康の江戸入府時(天正18年)に、

初代奈良屋市右衛門は、初代樽屋籐左衛門らとともに、家康と一緒に町年寄として、江戸に入ったとされています。(「三年寄由緒」

より、)※喜多村家が、江戸町年寄に加わったのは、もう少し後らしいですが。

つまり江戸町年寄になってからは町人身分なのですが、元々は奈良屋も樽屋も喜多村も、武士(家康の家臣)?だった訳なのです。

でも樽屋の方の素性はある程度判明しているのですが、江戸町年寄筆頭である奈良屋の方が、実は全く良く判らない状況なのです。

唯一、「コトバンク」が奈良屋市右衛門を解説しているのですが、先祖が大和の奈良に住んでいたので奈良屋なのだそうです。何故、

奈良に住んでいた武士?(新領主は豊臣秀長!)が、天正10年(1582年)に、わざわざ三河の小領主、松平元康の家臣になるため、

移住してくる必要があると言うのでしょうか? また、伊賀越えならぬ大和越えでの恩賞?、などという珍説にも疑問があります。

更には、後世に「舘」(たち)を名乗っていることから、大舘氏の末裔?、とする説などもあるようですが、大舘氏の本拠地は奈良

ではありませんよ。コトバンクでは、結局良く判らないのです。 理由は、奈良屋(奈良氏)についての歴史史料がほとんど残って

いないから、なのです。でも、何故残っていないのでしょうかねえ?、、、

 

私は、江戸中期に書かれた「三年寄由緒」(宮内庁書陵部蔵)は、後世に作られた由緒書きなので、ウソや誇張が多いハズとは考え

ますが、「奈良屋は元々、三河時代の家康に仕えていた、」とする記述は、正しいと考えます。逆に、他史料に奈良屋の家臣名が、

全く見られないため、「三年寄由緒」の記述の方がウソだろうと思われ、天正10年=本能寺の変?なので、家康伊賀越えでの恩賞?

などという、荒唐無稽の話しが作られたのだろう、と思われます。 結局のところ、初代の奈良屋市右衛門の素性は、謎なのです。

 

ではもし、三河時代の家康の家臣だったとすれば、その出自・素性は、一体どのように考えたら良いのでしょうかね?(次回へ)