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歴史の流れは不明なれど、名前の残った奈良姓の人々。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

コメの価格がようやく下がって来たようです。銘柄米は以前同様に高いのですが、人気のない米は、いよいよ米業者による損切り

が始まったようです。コメ農家から高値で買い付けたツケが、遂に回って来た訳です。コメ業者が損切りを始めた理由は、これ

以上高値で保持し続けても、在庫が処分出来そうもないと判断したからです。何故か?、それは、おいしくなって安い輸入米が、

大量に日本に輸入されているからです。日本の消費者は既に、コメ業者だけでなく、コメ農家も含めてJAや農水省を、見限って

いるのですよ。いつまでも高いままなら、安くておいしい輸入米を食べるからいいのです。

  

 さて前回までは、「奈良姓の歴史概説」として、古代から明治期まで、通史的に奈良姓の歴史を辿ってまいりましたが、今回から

は、歴史的背景・繋がりは不明なのだけれど、それぞれの分野で有名人となった奈良姓の人々について、見て参りたいと思います。

そこで今回は、前回の弘前津軽塗職人(塗師)からの工人繋がりで、鹿角の大湯こけしの職人について、見て行きたいと思います。

実は、奈良姓の発生由来との、多少の繋がりなどは、ありそうな感じなのですよ。

 

 現在のこけしは、東北各地の温泉地の土産物として、江戸時代頃から普及していました。特に東北の各温泉地では、その温泉地

独自のこけしが、地域名産として作られて来ました。それを温泉湯治客が、子供や孫への手頃な土産玩具として買い求めました。

現在でも宮城県の鳴子温泉や、福島県の土湯温泉、蔵王の遠刈田温泉などの地場こけしが、大変有名ですわね。

でもどうして東北地方の各温泉地で、こけしが作られ始めたのでしょうか? 実はコレ、前回の津軽塗とも関連しているのですよ。

津軽塗等の漆器職人は塗師(ぬし)と呼ばれます。で、塗師にその材料である木のお椀やお盆、箸などを作って供給する職人の事を

木地師(きじし)と呼びます。木地師は、木材の豊富な山奥に住みます。そこで木材からお椀やお盆を成形して、城下に住む塗師に

卸す訳です。そして木地師の住む山奥の近くには、大体温泉が湧いているのですよ。農閑期である冬季には、近郊の農民達が湯治の

ために温泉を訪れます。冬場は雪のため木材も伐採出来ないので、木地師達も暇になります。そこで木地師達は、臨時収入のための

余技として、温泉湯治客向けの土産物として、こけしを作り始めた訳なのです。これが温泉地土産として大成功したお陰で、各地の

温泉地ごとに、特徴のあるこけしが作られるようになりました。近年ではこけしブームにより、有名作家の工芸品のような、高価な

こけしも現れるようになりました。木地師から、こけし専門職人(作家)が生まれるようになり、もはや農閑期の木地師の余技では

なくなった訳なのです。

 

 そんな専門職人が、大湯こけし作家の奈良靖規さん(左端写真、1897~1985)や奈良吉弥さん(右隣り、1939~1971)です。

※写真やデータは、Kokeshi  Wikiより拝借しました。それぞれの作品は、順に右隣りの写真です。

鹿角の大湯温泉は、開湯800年を誇る名湯で、大湯こけしも有名で、温泉街には「大湯こけし館」というこけし資料館もあります。

ただこのブログは、奈良姓についてのブログですから、作家や作品の評価については、良く判りませんです。悪しからずお許しを。

しかしこのお二人は、秋田県鹿角市の大湯温泉のこけし作家の中では、有名な方々であるようです。

 

で、このブログで考えるべきは奈良姓についてです。鹿角市大湯で奈良姓ですよね、これは鹿角由来記にある鹿角四頭の末裔か?

などと、思ってしまう訳です。しかし私は、このお二人が、九戸の乱まで大湯を支配していた奈良氏の末裔なのか?は、判らない

と思います。何故なら、もし奈良さん達のご先祖が、大湯奈良氏の末裔だったなら、九戸の乱後に大湯に進駐して来た南部氏側に、

弾圧されたハズだからです。なので鹿角の武家奈良氏達は、揃って津軽や秋田に逃れたのです。私は南部氏に占領された鹿角に、

武家の奈良氏は、存在しなくなったと考えています。ではどうして現在の鹿角市に、多くの奈良姓が存在しているのでしょうか?

私、この理由は、鹿角由来記にあると考えます。鹿角由来記の記述とは、「大湯村、大湯左衛門~本名奈良~」の記述のことです。

九戸の乱後に領主となった大湯五兵衛も大湯を名乗っていることから、鹿角地方には江戸期まで、村の領主(役人?)になると、

村名を姓として名乗り、それぞれの村ごとに鹿角四氏の本名があるという風習?が、古くから存在していたことが判るのです。

そして明治期になり、鹿角の村民全員が姓を名乗ることになります。この時、大湯村や新斗米村や小枝指村、芦名沢村出身の者の

多くは、本名?である奈良を名乗ったと考えられるのです。何故なら、そう伝えられて来たからです。同様に、毛馬内村や神田村、

荒川村、大地村等の出身者の多くは、本名である成田を名乗ったハズなのです。明治期ですから、もはや武士も農民もないのです。

そこで大湯こけし作家となった奈良靖規さんや奈良吉弥さんの経歴出身を調べてみると、やはり大湯の出身であることが判ります。

更に、奈良吉弥さんの経歴を調べてみると、面白いことが判りました。それは奈良吉弥さんがこけし作りで、誰に師事していたの

か?、なのですが、木地師の成田七郎という方に師事していたそうなのです。さてこの成田七郎さん、一体どこの出身なのでしょう

か?、 そうなんです、鹿角は毛馬内村の出身だったのですよ、、、。 あ!、毛馬内出身なので、本名、成田姓だ、、、、。

さて、この私の説、いかがでしょうかね?

 

次回は、どの分野の奈良さんを、ご紹介しましょうかね?(次回へ)