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奈良姓の歴史概説21:明治期、青森奈良氏末裔の足跡。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

総選挙は、高市自民党の大勝という結果に終わりました。この結果は、我々の生活に、どの

ような影響を及ぼすのでしょうかね? 株価は更に上昇しています。しかし一方で、物価も

めちゃくちゃ上がっていて、ちょいと前まで、おにぎり100円セールをやっていた、セブンの

ツナマヨおにぎりは、196円だそうですわね!つまり、持てる人達は益々豊かになり、お金の無い人は益々苦しくなる、と言う事です。生活格差は更に広がって行きますね。注目される

のは富裕層だけで、非正規労働者達は無視されますね。まあしかしこの結果は、皆さんが選択した結果ですから、甘んじて受け止めなければなりませんわね。皆さんがこの影響を、必死で耐え忍ぶ覚悟があるのならば、良いのですがねえ、、、、

  

 さて前回は、まだ武士にしがみつき、江戸時代を続けていた元弘前藩士達が、明治9年

(1876年)の秩禄処分により、遂に武士を廃業するまでの状況を見て参りました。

で今回は、私の直接の先祖のケースを例として、元弘前藩士達が、いかにしてリンゴ農家へ

転身して行ったのかを、見て行きたいと思います。だって弘前周辺のリンゴ農家の初代は、

私の直接の先祖を含めてほとんどが、元弘前藩士(とその子孫)だったからです。

そこでまず始めに、青森のリンゴ栽培の歴史から、その流れを見て行きたいと思います。

最初は、奈良幾久子の息子である菊池九朗が、慶應義塾に倣って弘前に設立した東奥義塾の英語教師として来日した米国人宣教師:

ジョン・イングが、弘前教会でのキリスト降誕祭(クリスマス)で、生徒や信者に、西洋リンゴを振舞ったことが、始まりでした。

現在の感覚で言えば、初めてシャインマスカットやマスクメロンが紹介された時、みたいな感じでしょうかね?

で、翌明治8年(1875年)4月、内務省勧業寮より産業育成、士族授産事業の目的で、青森県庁に、西洋リンゴの苗木3本が送られて

来たので、早速試植されました。しかし本数が足りないので、同年の秋と翌年の春に、数百本の苗木が追加配布・試植されました。

そして明治10年(1877年)8月にリンゴは結実し、採取することに成功しました。この成功により、一人の人物が当時出来たばかり

の北海道開拓使の農業試験場を訪れ、リンゴ等の栽培技術を習得しました。その人物が、掲示写真の菊池楯衛(たてえ)でした。

当然彼も元弘前藩士で、元々山林・樹芸の仕事を担当していたのでした。早速弘前に、「化育社」という会社を設立し、苗木を配布

し、リンゴ等の西洋野菜・果樹栽培の研究・普及に取り組んだのでした。その後明治17年には、菊池楯衛を中心とする元弘前藩士

11名による「津軽果樹研究会」が設立され、リンゴ栽培の普及が促進されました。彼は後に、青森リンゴの父、と呼ばれるように

なります。弘前ではリンゴ栽培が、爆発的ブームになりました。何故なら、コメなど従来作物に比べ、換金性が高かったからです。

最近のシャインマスカットの例と同じですね。しかもそれまでリンゴ栽培をしていた農家などはおらず、普及を推進していたのは、

菊池楯衛ら元弘前藩士達ですから、弘前でのリンゴ栽培に参加したのは、当然元弘前藩士達だったのでした。秩禄処分で得た金禄

公債証書を元に取得した土地で、何人かの元藩士達は、リンゴ栽培を始めることになったのでした。逆に言えば、明治期に、弘前

周辺でリンゴ栽培を始めた人間のほとんどは、失業した元弘前藩士だった、と言う事なのです。リンゴ栽培とは、新しいベンチャー

事業であった訳です。

そんな明治20年代に、私の曽祖父に当たる奈良儀作(明治2年生)も、リンゴ栽培に参入したようです。場所は弘前近郊の中野目村

(現藤崎町)でした。少し前までは、中野目村にある智園寺には、奈良儀作が建立したと思われる、奈良源三郎(5代前)の墓石も

存在していました。(現在は確認出来なくなりましたが。)このリンゴ栽培へのきっかけは、もちろん儀作の父・祖父が、元弘前藩士

であった、という繋がりはあったと考えられますが、それだけではないと思われるのです。それは東奥義塾の創立者で弘前の偉人、

菊池九朗との関係なのです。以前に書いた通り、菊池九朗の母親は、弘前藩の笠原近江の騒動で弾圧を受けた奈良荘司の娘、奈良

幾久子です。その奈良家を継いだ奈良誠之助は、後の弘前市議会で、菊池九朗とともに、官僚派と戦っているのです。

つまり、菊池家と奈良家は、親類関係で、仲が良かったのですよ。そして菊池楯衛の菊池家と、菊池九朗の菊池家は、親類かどうか

は不明ですが、弘前藩士としては同族関係です。(※但し、菊池楯衛自身は、成田家から菊池家へ養子に入っているのですがね、)

ですから当然、菊池楯衛(津軽果樹研究会)から、弘前の各奈良家に対しても、リンゴ栽培の紹介は、当然あったハズだろう、と

考えられるのです。私の先祖がリンゴ栽培を始めたのは、このような経緯からだったのだろう、と思われます。

 

 こうして明治20年代にリンゴ栽培を始めた私の先祖ですが、最初の頃は儲かって、羽振りも良かったようです。この理由は、その

当時はまだ、西洋リンゴが珍しく、市場換金性が高かったからなのでした。やはり少し前のシャインマスカットブームみたいな状況

だったのでしょうね。大儲け出来た背景には、明治24年に青森-上野間の鉄道が開業した点も大きかったと思われます。青森リンゴ

が大消費地である東京と、物流で結ばれたからです。

しかしその後、明治33年にはモニリア病が大発生して大打撃を受け、更には明治41年にも、再びモニリア病が大発生しました。

しかし、収量が回復すれば何とかなるとの目論見で、この災難を何とか借金で克服し、明治43年には遂に前年の3倍の収穫量となる、

大豊作を達成したのでした。コレ、本来なら、大成功・万々歳なハズですよね?

ところがなのです、この大豊作があだとなり、リンゴ価格が大暴落してしまったのでした。借金投資が、裏目に出てしまった訳です。

原因は、岩手、長野などのリンゴ農家も、大豊作だったからです。(今のコメ農家と同様ですなあ、、、、)

更にはこの翌年から再び、リンゴの病害虫被害が続きました。また借金をしなければなりません。

これにより、多くの弘前のリンゴ農家がリンゴ栽培に見切りをつけ、農園も借金のため手放してしまいました。こうして私の先祖も、

遂に津軽を去らねばならなくなってしまったのでした。なので私の直接の先祖は、明治の終わりに、北海道へと移住したのでした。

もちろん頑張って、リンゴ栽培を続ける者もおりました。現在、宮城県柴田郡川崎町の「国営 みちのく杜の湖畔公園」内にある

ふるさと村エリアに「津軽の家」として展示されている、明治期リンゴ農家住宅の元の持ち主:奈良哲夫さんのご先祖は、頑張った

方の一人だったと思われます。しかし私の先祖の方は、残念ながら頑張れなかった訳なのです。ですから私の先祖についての記述は、

ここまでと、させて頂きたいと思います。

 

遠い津軽の地で、明治の秩禄処分により武士を廃業した奈良姓の人々の転業先は、もちろんリンゴ農家だけではありませんでした。

当然他の分野でも、足跡を残していた奈良姓の人々がいたのです。(次回へ)