· 

奈良姓の歴史概説20:幕末から明治、弘前士族の秩禄処分、武士廃業。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

いよいよ明日は、総選挙の投票日です。今回の争点の一つは物価高対策でしたが、

私、不思議に思うんですよ。ほとんどの日本人は、物価が高い!と訴えています。

一方で、日本を訪れる多くの外国人は、日本は物価が安い!と言っている訳です。

一体コレ、どういう事なのでしょうか? どちらも間違っている訳ではありませんよ。原因は賃金の内外格差、為替水準等なんですけど、これほど正反対の感覚というのは驚くべき事です。つまりそれ程、日本と世界の認識は乖離して来ている、と

言う事なんです。もっと言えば、日本人は実は益々、井の中の蛙、大海を知らず、

状況になって来ている、という事なんですよ。

 

 さて前回は、幕末から明治にかけての弘前(私の先祖の地)で、比較的著名な

奈良姓の人物についての系譜を、ご紹介してみました。弘前の奈良姓にも、かつて

は、このような人物が存在したことを、一応ご理解頂ければ、と思います。

 で今回は、私の直接の先祖達が味わった苦難の状況についてです。今回の掲示写真は、明治4年7月の廃藩置県により出来た、弘前

県庁庁舎の写真です。田んぼの周りにいくつかの建物が並んでいますね。弘前の政務は、弘前城からこの新庁舎に移転したのでした。

政務を行う場所が変わった訳ですね。ただ、藩主津軽承昭は東京でクビになったものの、藩政を司っていた藩からの派遣官員(藩士)は、従来通り、との指示のままだったので、元藩士達は安心します。しかしこの新県庁舎も、同年10月には、弘前県が青森県に変わる

ことになり、県庁舎自体も青森に移転することになります。藩の政務都市が、藩都弘前から青森に奪われてしまった訳ですね。官員

(公務員?)である元弘前藩士達は、将来の不安に怯えたのだろう、と思われます。

また弘前県では、廃藩置県により、弘前藩士の身分、名前、人数等を確定するための、「由緒書、代数調」と言う藩士の家系・由緒

書きの提出も、実施されました。(明治5年提出)記録は、津軽家文書(弘前市立図書館蔵)の中に、各家の名前が残っています。

こうして廃藩置県により、職場を奪われた元弘前藩士達は、明治9年(1876年)8月には、秩禄処分(家禄廃止)が実施されること

により、遂に武士を廃業し、失業してしまうことになります。(新政府による、武士に対する嫌がらせ?)

 

しかし弘前藩では、明治維新の版籍奉還の時から、この事態に備えるため、武士が農民に帰る帰農策として明治三年(1870年)に

「帰田法」が制定されていました。農地を安く接収して藩士らに配布し帰農を促す政策でしたが、上手く行きませんでした。何故

なら既に家禄(給与)が削減され、藩士達は生活困窮していたので、配布された土地の権利書は、それまでの借金の返済に消えて

しまっていたからなのでした。農業に戻り、地道に永続的な収入を確保するよりは、安易な臨時ボーナスとして、消費してしまった

訳なのです。逆に何故、困窮していながら売却が出来たのか?と言えば、減額されたとは言え、家禄(給与)の支給が、まだ続いて

いたから、なのですよ。ですから結局帰農せずに、武士の身分のまま、弘前に残っていた訳なのです。

ところが廃藩置県により、職場がなくなり、更には1876年の秩禄処分により、家禄(給与)の支給が停止され、遂に元弘前藩士達

のお尻にも、火がついてしまったのでした。

 

一方で、新政府としても、失業士族救済のため、「士族授産事業」を推進していましたが、銀行業だの織物工場だの牧場経営だの、

元々裕福な、上級士族向けの事業ばかりの状況だったのです。元々武士は、支配階級でしたからね、支配階層向けの大規模事業

ばかりを推奨していた訳です。まあもっとも、下級士族向けの「北海道開拓使」(屯田兵)の募集などもありましたけれどね、でも

下級士族とは言え、プライドは高い元弘前藩士ですから、最初は皆毛嫌いしたようです。まあ、農業も開墾も未経験ですからねえ。

ですから最初の頃の開拓使・屯田兵は、新政府に反乱を起こした士族(国賊)とか、囚人等が中心でした。まあ強制労働ですわね。

この開拓使・屯田兵には、戊辰戦争で新政府軍に敗れた、多くの元会津藩士⇒斗南藩士が、含まれていたことは、有名な話しです。

 

しかし秩禄処分は、家禄を廃止される個々の士族達に、何の補償も無かった訳ではありませんでした。実は弘前藩の帰田法の時と

同様に、元弘前藩士に対し、金禄公債証書が発行されていたのでした。これはまあ退職金(手切れ金?)みたいなもので、数年分

の家禄を、円建ての公債証書として士族各家に支給したのでした。そのための明治五年の「由緒書、代数調」の提出だった訳です。

弘前藩では、明治三年の帰田法の時に、皆さん一度失敗していますからね、6年後の今回は、絶対失敗出来ないのでした。なので

私の直接の先祖(5代前)も、この金禄公債証書を元に、弘前の近郊、南津軽郡の中野目村(現藤崎町)に、農地を獲得したの

でした。この中野目村、元々弘前藩領で、村のほとんどが田んぼでしたから、私の5代前の先祖も農民となり、稲作からスタート

したものと思われます。いきなりリンゴ栽培じゃあなかったハズなのです。

 

 さてこうして、元弘前藩士達にも秩禄処分が実施された訳ですが、これに先立つ明治8年(1875年)、士族授産事業の一環として

内務省勧業寮より、リンゴの苗木3本が、青森県庁に配布されて来ます。誰も知らない西洋リンゴの苗木、この時、西洋リンゴを

弘前に初めて紹介した人物がおりました。その人物とは、奈良幾久子の息子、菊池九朗が設立した東奥義塾の英語教師でもあった、

宣教師ジョン・イングでした。彼は弘前教会でのキリスト降誕祭(クリスマス)で、教え子や信者達へ、西洋リンゴを分け与えた

のでした。 これが青森リンゴ誕生の発祥と、言われています。

 

失業し農民となった元弘前藩士と西洋リンゴ、さてその後は、一体どのように展開して行ったのでしょうかねえ?(次回へ。)