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奈良姓の歴史概説20:幕末から明治、元弘前藩士の奈良氏の行方とは?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

日本海側では連日大雪が続き、関東では連日晴天で、雨がまったく降っていません。なので山火事等が各地で頻発しています。

夏の猛暑の方は異常気象と言われていますが、冬のこの現象も異常気象だと思いますよ。要は天気も、極端から極端へになって

いるのです。穏やか・ゆるやかではなくなっている訳です。現在は総選挙真っ最中な訳ですが、政治も同じです。米国を見ても、

極端から極端に振れる社会になって来ていると思われます。来週の選挙結果次第では、日本も、そのような極端から極端へ、の

世の中・社会になりそうな予感です。極端は、更なる分断・対立を生み、社会は混乱しますよ。しかし当の候補者の皆さん達は、

自分達が極端だ、とは思っていないのですよ。逆に相手こそが極端だと、信じているからです、、、。 

 

 さて前回は、幕末から明治にかけての私の直接の先祖に当たる奈良姓の様子を描くための前段階として、津軽弘前藩の置かれて

いた状況について、書かせて頂きました。まあ全国どこの藩も維新期は大変だった、と思いますが、弘前藩も同様に大変な状況

だったのでした。今回は、そんな幕末~明治時代の弘前で、多少は知られた?奈良姓の系譜について、見て行きたいと思います。

今回の左掲示文書は、江戸末期の「陸奥国弘前津軽家文書六」(国文学研究資料館蔵)からの抜粋です。

この中に、奈良荘司という名前が見えますが、コレ、幕末の弘前藩内でのお家騒動、「笠原近江騒動」についての記録なのです。

どういうお家騒動か?と言うと、時は天保年間(1831~1845年)、天保の飢饉以前から、深刻な財政難に苦しんでいた弘前藩は、

1833年からの天保大飢饉により、窮地に立たされます。ところが藩主津軽信順は、江戸で側室を囲い遊興に浸るなど、相変わらず

贅沢三昧を繰り返しておりました。藩の窮乏を立て直すため、改革緊縮策を提言したのが、国家老であった津軽多膳らの改革派の

グループでした。

この動きに反発した藩主津軽信順は、贅沢を容認していた前江戸家老の息子、笠原近江皆充を、側用人として藩政に抜擢します。

この笠原近江が、津軽多膳派を、無能と、藩主津軽信順に訴えたことにより、天保四年(1834年)10月に、津軽多膳派27人が、

一挙に罷免・投獄されてしまった、というお家騒動なのでした。その後笠原近江は、家老に抜擢されています。まあメチャクチャ

ですわね。結局この騒動を知った江戸幕府は弘前藩に圧力をかけ、天保七年(1836年)9月に、笠原近江は罷免・謹慎処分となり、

天保十年(1840年)5月には、藩主津軽信順も、隠居処分になってしまいます。その際、津軽信順は無嗣(子無し)であったため、

支藩の黒石藩より、養子として新藩主津軽順承を迎えて収束しました。この弘前藩のお家騒動を、「笠原近江騒動」と言います。

で、この騒動の中で奈良荘司は?と言うと、津軽多膳派(改革派)の中心人物として、何と斬首刑処分を受けたようなのですよ。

やはり当時は、身分社会なのですね、下っ端家臣は斬首刑で、主犯は隠居や謹慎だけ!、ですからねえ、、、

一応、弘前藩の奈良荘司の名前だけは、覚えておいて下さい。でもまあ奈良姓ですけど、あまり知られていない人物ですわね。

 

 話しは変わり、明治時代の弘前で偉人と言われる人物に、菊池九朗という人物がおります。(真ん中掲示写真)彼は元々弘前藩士

で、藩校:稽古館の司監でしたが、戊辰戦争においては奥州列藩同盟の結成に尽力しました。まあ弘前藩の若手エリートだった訳

ですね。それで明治元年には弘前藩藩主津軽承昭の命により、福沢諭吉の慶應義塾に入塾し、更に鹿児島の西郷隆盛の元でも研鑽

を積み、その帰郷後の明治五年に、藩校稽古館を引き継ぐ形で、東奥義塾(現東奥義塾高校)を設立したり、東奥日報という新聞を

発刊したりしました。後には、弘前市長や衆議院議員、衆議院の全院委員長等を歴任し、民権派の政治家として有名になりました。

なので菊池九朗は、弘前の偉人と呼ばれるようになった訳です。でもこの菊池九朗と、弘前の奈良氏(姓)とは、何か関係がある

のでしょうかねえ? 

 実は大有りなのですよ。この菊池九朗の母親の名は、菊池幾久子と言うのですが、旧姓では奈良幾久子でした。 え?奈良?、

そうです、奈良幾久子とは、笠原近江の騒動で斬首処分を受けた、奈良荘司の娘なのです。でも、罪人の娘が、よく弘前藩の若手

エリートと結婚出来たものですねえ。そうなんですよ、一旦は藩主津軽信順より、奈良家お取り潰しの処分を受けていたのですが、

その後新藩主津軽順承により、名誉回復・お家再興を果たしていたのでした。ドラマみたいですよね。その菊池幾久子が、右側の

写真です。その後菊池幾久子は、息子菊池九朗の設立した東奥義塾の女子部で、教鞭を取るようになります。ちなみに、菊池九朗

の要請により、明治七年(1874年)に東奥義塾の英語教師として赴任して来たのが、アメリカ人宣教師ジョン・イングでした。

(NHK朝ドラのヘブン先生ですわね。)彼は青森県最初のキリスト教教会となる弘前教会も設立しています。更には、青森に初めて

、西洋リンゴを紹介した人物としても知られています。そして菊池(奈良)幾久子も、キリスト教徒となり、特に女子教育、お歯黒

禁止、禁酒、廃娼運動などに力を入れたそうです。やはり改革派ですわね、奈良荘司の血を受け継いでいたのでしょうね。

 ちなみにお家再興を果たした奈良家の奈良誠之助(奈良荘司の孫、菊池九朗のいとこ)は、菊池九朗らとともに、青森弘前市に

おける、板垣退助の自由民権運動(大同派)に参加し、明治22年、第一回の弘前市会議員選挙で当選しています。

この時弘前では、武士の街らしく、元家老家など元上級藩士達のグループ、藩閥・官僚派と、改革・大同派が、激しく対立して

いたのですが、選挙では改革・大同派が圧勝したのでした。まあ血は争えない、と言う事なのでしょうね。反骨の系譜は、笠原

近江の騒動から続く、奈良家の子孫それぞれに、引き継がれていた訳なのです。

 

と、このように、弘前奈良氏の系譜にも、尊敬すべき人物?もいた訳なのですが、名もなき奈良氏達の方は、武士廃業の後、一体

どうなって行ったのでしょうかね?(次回へ、)