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奈良姓の歴史概説19:江戸期各地の人口分布から見る、奈良姓農民の状況とはⅡ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

今日本は、空前の株高で、投資ブームなのだそうです。新型NISAの登場で、益々

ブームは過熱しています。私、危険だと思いますよ。そろそろバブルははじける

と思われます。理由は単純です。ここまで株価が上昇し、一方で円安がどんどん

進行しているからです。別な言い方をすると、日本の国力が、どんどん弱くなって

いるのに、見かけの株価だけが異常に高くなっているからです。間もなく株価は、 

大暴落するハズですよ。何故なら世の中、働かずに儲ける事など、出来ないから

です。現代の株取引きとは、単なるババ抜きゲームですよ。

 

 さて前回は、現在の奈良姓の全国分布地図を元に、江戸期における奈良姓農民の

各地への移動状況、特に群馬県前橋市への移動状況について、史実に基づいた考察

をしてみました。結論は、加須地域から灌漑治水事業のために、総社藩主秋元長朝

によって、奈良姓農民達がスカウトされたのだ、というのが私の見解でした。

まあ、前橋市に奈良姓の人口が多い理由については理解したとして、同じ群馬県内で、前橋市と並んでもうひとつ、邑楽郡明和町に

だけ、奈良姓が多い点は、一体どう理解したら良いのでしょうかね? 群馬県内では、この2か所だけ奈良姓の割合が、異常に突出

しているのですよ。(前橋市 0.33%に次いで、明和町 0.24%。※全国平均は0.03%で、約10倍の差。)

そこで今回は、この群馬県邑楽郡明和町について、その理由を推測・解明して行きたいと思います。

 

 さて総社藩主秋元長朝により1602年に開始され、1604年に完成した、奇跡の天狗岩用水工事は大成功し、その評判は、江戸に

幕府を開いたばかりの徳川家康の耳にも届きます。何故なら翌1605年からの天狗岩用水延長工事には、関東代官:伊那忠次が参加

していたからです。そしてこの伊那忠次とは、あの徳川家康による「利根川東遷大工事」の中心人物と言われている家臣だから、

なのです。家康は当時、江戸周辺の洪水被害をなくし、広大な新たな田畑を確保するため、利根川の付け替えを計画していました。

その当時の利根川は、現在の埼玉県羽生市川俣付近で流れが分れ(会の川へ)、南の江戸へと流れ込み、度々大洪水を引き起こして

いたからです。1594年には、会の川の流頭が締め切られ、東へまっすぐの流れになるハズでしたが、うまく洪水は収まらない状況

だったのでした。そこで家康(伊那忠次)は、天狗岩用水工事を成功させた奈良一族を、利根川の付け替え(東遷)工事のために

呼び寄せたのです。本当?、ちょっとびっくりですよね?。でも私は確信しています。何故なら忠次は奈良一族を、邑楽郡明和村

に配置したからです。何故か?、川が分流しているのには、ちゃんと理由があるからなんです。単純に分流している片方(会の川)

の流頭をせき止めるだけでは洪水は収まらないのです。理由は増水時に分流部(羽生市川俣付近)の上方(北側)から、渡良瀬川

・矢田川による利根川本流への強い流水量圧迫があるので、耐え切れずに利根川は、二流(二股)に分かれていたから、なのです。

さて、分流部の対岸とは、一体どこなのでしょうか? そうです、邑楽郡明和村なのです。この地で矢田川の治水工事を行うこと

によって、ようやく利根川は、東へと流れを進めることが可能になったのでした。こうして奈良一族は、明和村にも新田を開発し、

この地にも定住したのでした。つまり奈良一族は、徳川家康の利根川東遷事業の一翼を担っていたのだ、と言える訳なのです。

(もちろん、利根川東遷事業の、ほんの一部分だけですけれどね、でも重要な一部分だったと思いますよ。)

このように幡羅郡奈良村から出発した関東の農民、奈良一族は、治水・新田開発の専門集団として乞われ、加須地域⇒前橋地域

⇒邑楽郡明和村へと、その開拓居住範囲を拡大して行ったのでした。 どうです? でも、、、まだ信じられませんかねえ?、、、

 

 さて、では群馬県前橋市、邑楽郡明和町と同様に、実は山梨県にも奈良姓の人口比率が高い地域が存在することを説明します。

地図をご確認下さい。それは上野原市(何と2%)、大月市(1.6%)、都留市(0.26%)なのです。※奈良姓の全国平均は、0.03% 

さてこの3市周辺を合わせて、江戸時代は何と呼ばれていたか、ご存じでしょうか? 答えは谷村藩です。1633年、この谷村藩に

国替えになった藩主が赴任して来るのですが、さて誰でしょうか? それは秋元泰朝といいます。そうです、群馬の総社藩から

国替えになった、秋元長朝の嫡男、秋元康朝なのです。そして彼は何と1639年に「家中川」用水路の開削に成功しているのです。

このことは秋元康朝が、総社藩から治水の専門家集団である奈良一族を引き連れて、谷村藩に赴任したことを示しているのです。

ですから谷村藩には、これ程までに異常に、奈良姓が多いのです。秋元氏と奈良一族のつながりの深さも、良く判りますよね。

以上、これらの成功事例は、言わば江戸時代版の「プロジェクトX」である、とでも言えるような功績なんです。 

 

ちなみに、山梨県上野原市の初代市長(平成17年~平成21年)は奈良明彦氏と言う方なのですが、全国土地改良事業団体連合会

より、ため池整備事業や上野原用水整備事業での長年の功績により、「歴史伝承マイスター」として表彰されているんです。(国土

交通省HPより)つまり、農民奈良一族の治水における活躍・功績は、江戸時代から現代まで、ずっと続いていた、と言うことが、

良く判るのです。これでようやく理解して頂けましたでしょうかね? 私はこの奈良一族の功績、もっと世間に知られるべきだ、

と思いますけどね。 

 と言う訳で、奈良姓を含めた、名もない普通の農民達の営みが、歴史の裏側で、江戸時代の繁栄を築き上げていたのだ、と言う

知られざる歴史事実こそが、実は本当の歴史の真実なのですよ。

 

 さてそれでは、時代が下った幕末から明治にかけての奈良姓の動静などは、何か分かるのでしょうか?(次回へ。)