新年、明けましておめでとうございます。また、いつもこのブログをご覧
頂き、誠に有難うございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
今年は年初早々、ガザやウクライナに続き、南米ベネズエラでも紛争が始まり
ましたね。トランプが関わるところ、どこも紛争だらけです。ノーベル平和賞
など絶対に無理な状況です。次はグリーンランド?コロンビア? 今年は益々、世界の混迷の度合いが高まるでしょうね。50年前の宇宙戦艦ヤマトじゃあない
ですが、「人類滅亡の日まであと何日!」と、なりそうな予感です。
さて前回までは、九戸の乱の動乱を経て、鹿角から秋田へ逃れた豪農奈良家、
そして前回は、津軽に逃れた武家奈良氏が、江戸期まで存続していた状況を、
成田氏や工藤氏との関係も絡めて、見て参りました。
で今回は、江戸期の奈良姓農民の動向について、なのですが、名もなく地味な
奈良姓農民の動静は、下級弘前藩士奈良氏の動静と同様に、捉える事が難しい訳です。でも皆さん、奈良姓農民なんて、弘前藩の
奈良氏と同様に、輝かしい実績など何も無い!、とお思いですよね? 実はそんなこと無いのですよ、奈良姓農民にだって、凄い
実績があったのです。しかも特定の個人のエピソードなどじゃないのですよ。そこで今回掲示したのは何と、日本地図になります。
コレ、現在の奈良姓の人口分布の色分け地図なんです。※名字由来netさんからの拝借です。掲示の理由は、農民の人口分布比率は、
江戸期から現代まで、土着した土地に根差していますので、時代が変わっても、大きく変わることはない、と判断するからです。
(仮に職業・職種は変わっても、自分達の土地があるので、多くはその土地には残るだろう、との考え。) ※日本人が生まれた土地
(故郷)に執着しなくなり、転勤などで人々の自由な移動が活発になったのは、戦後の高度経済成長期以降の事だろう、と考えます。
とすれば逆に、地域により、人口分布に偏移(偏り)があるとすれば、何らかの人為的偏移の原因・理由があることを、示唆して
いるのですよ。もし何事も無ければ、分布は平準化し、全国平均値に近づいて行くからです。
地図の赤色エリア(県)が、奈良姓の相対的比率が高い地域で、やはり青森県と秋田県になります。全国平均人口比率で奈良姓は、
僅か0.029%に過ぎないのですが、青森県では0.3%、秋田県では0.24%と、統計学的有意に比率が高いのです。もしかすると江戸期
は、比率がもっと高かったかも?、と思う程です。そしてこの理由は、戦国末期の九戸の乱による、奈良氏一族の大移動が原因だと
考えられるのです。脱出したのは武士だけだろう?、ですって?。戦国期までは、武士=農民ですよ。農民と武士が完全に別れたの
は、江戸期に入ってからの話しです。なので戦に敗れると、一族大移動になるのです。そして仕官が叶わなかった奈良姓は、農民と
なって生き延びたのでした。ですから、奈良姓分布が真っ白な、南部氏領(=岩手県)との対比を見て下さいな。
さてこの分布図で問題なのは、オレンジ色で表示されている群馬県と山梨県なのです。青森・秋田に次いで、奈良姓の比率が高い
ことを表しているからです。群馬と山梨にどんな理由があるのでしょうか? もう少し詳細を調べる必要があります。
まずは群馬県ですが、当然県内でも奈良姓の分布に違い・バラつきがあり、調べてみると、ダントツに奈良姓が多いのは前橋市で
あり、二番目に多いのは邑楽郡明和町であることが判ります。逆にその他の地域の奈良姓は、さほど多くはないのです。更には元々
奈良姓の発祥地である武蔵国幡羅郡奈良村近辺(埼玉県熊谷市)には、何故か奈良姓がほとんどいないのです。埼玉県内で奈良姓が
顕著に多いのは、熊谷市から東に少し離れた(3~40Km)、加須市と久喜市なんです。加須市が0.29%、久喜市も0.29%なんです。
ちなみに奈良姓分布の全国平均値は、先ほども示した通り、わずか0.029%ですから、10倍も比率が高いのです。これらの状況を、
総合的にどのように考えるのか?、なのです。地域による偏在には、その偏在の理由が、必ずあるハズ、だからです。
私は以前のブログで、幡羅郡奈良村を本領とした鎌倉御家人奈良氏の本家は、鎌倉中期には没落し、領地は借金のカタに取られた
のだ、と述べさせて頂きました。なので吾妻鏡にある、閑院殿造営工事の寄進者名簿に、奈良氏の名前だけが、無かったのです。
その後は、三河・讃岐奈良氏の祖となる分家が隆盛になります。それで奈良氏本家の一族は、幡羅郡奈良村から出て行かねばなら
なくなります。こうして向かった先が、有力御家人の影響が及ばない、埼玉郡の騎西(私市)地域、加須・久喜一帯だったのです。
この時奈良氏はもはや、御家人・地頭ではありませんから、武士ではなく農民として再出発した訳です。この一族が江戸期・明治
まで続き、現在でも加須市、久喜市に奈良姓が特に多い理由になっているのです。この地域には、どんな特性があるのでしょうか?
地形学的には、利根川中流水系の加須低地と呼ばれる土地で、用水の確保が比較的容易な土地だったのでした。で注目すべきは、
旧領である奈良村(熊谷)エリアは荒川水系であり、既に治水環境が古代から整備されていて新田開発が盛んだった、という点なの
です。古代の文献に、湧水の記録が何度も登場しています。つまり奈良氏一族は、稲作農業を開始するための最重要課題である、
用水の確保、治水の経験が豊富だった、と言う事なのです。ですから新田開発に適した加須低地を見つけ、そこに定住することが
可能だった、と考えられる訳なのです。とは言え、まあホントかいな?、こじつけだろう?、とは思いますよねえ?
では群馬県前橋市と、邑楽郡明和町に奈良姓が多い理由は、どのように考えたらよいのでしょうか? 私は移住先だった騎西
地域の地域特性と関係があったと考えています。何か?、荒川と利根川なんです。農業を新たに始める(新田開発)ためには、
灌漑用水の確保(治水)が、極めて重要であることは先ほど説明しました。奈良氏一族は旧領奈良村で、荒川からの用水路(忍川
・星川)を、古くから造成・管理し、新田(奈良新田)を開発して来ていたのです。この治水経験が、移住先でも大いに役立った
と考えられるからなのです。さてどういうことか?、まずは群馬県前橋市(上野国群馬郡)から見て行きましょう。
実は徳川家康の関東入府後の1601年~1633年の間、家康の命により、前橋市に総社藩という新しい藩が立てられました。藩主の
名前は、秋元長朝と言いますが、あの鹿角四氏の秋元氏です。彼の最初の主君は深谷上杉氏で、秀吉の小田原攻めでは、北条方と
して戦いました。北条氏滅亡後には井伊直正の推挙により、家康の家臣に抜擢されたのでした。この境遇、のぼうの城で有名に
なった成田氏長と、何かよく似ていますね。(成田氏長は那須烏山藩) 総社藩に入った秋元長朝は翌年の1602年、増産新田開発の
ため、利根川からの用水路掘削工事を計画します。(アフガニスタンの中村医師みたいですわね。)しかし秋元長朝には、治水工事、
新田開発の経験豊富な家臣も農民もおりませんでした。そこで目を付けたのが、利根川水系の加須地域での治水・新田開発でも成果
を挙げていた、元奈良氏の農民達だったのでした。多分、加須地域は元々、主君の上杉氏領であり、元奈良氏一族に対しても、親近
感があったのだと思われます。そこで秋元長朝は、元奈良氏一族を何と、「3年間年貢免除!」の好条件で、総社藩へスカウトしたの
です。こうして2年後の1604年、遂に利根川からの引水工事は成功し、「奇跡の天狗岩用水!」が完成したのでした。(史実ですよ。)
そしてこの天狗岩用水路の完成により、総社藩では米の大増産が可能になったのでした。
なので、現在の前橋市には、約1100人もの奈良姓が居住しているのです。前橋市の人口は現在325,000人ですから、人口比0.33%も
存在している訳です。比率で言えば、青森県の0.3%より高いのですよ。ちなみに、前橋市では現在でも、秋元長朝が顕彰されている
のだそうです。でも肝心の奈良姓の先祖達の苦労は、何故か誰も知らないんだなあ、、、。 しかしまだ、信じられませんかねえ?
さてそれでは、同じ群馬県の邑楽郡明和町の場合などは、一体どうなのでしょうかね?(次回へ、)

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