いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
相変わらず、中国政府による日本に対する嫌がらせが続いていますが、まあヤクザによる恐喝のようなものですね。毅然とした
対応が求められます。我々庶民でも可能な対応としては、中国製品は買わないとか、中国旅行はしない、などが一般的なんです
が、もう一つSNSを利用した、中国政府や中国大使館による、巧妙な世論誘導があります。これを世論の力で撃退する(いいねを
押さない!)事も、我々庶民が出来る、小さな抵抗だと思います。
さて前回は、戦国末期に滅んだ鹿角奈良氏の末裔が、江戸期まで生き延びて繁栄した例として、秋田県立博物館の旧奈良家住宅
で有名な、秋田奈良家を紹介させて頂きました。しかし秋田奈良家の家伝では、弘治年間(1555年~1558年)に、大和国(奈良)
から移住して来たことになっているのでした。本当に秋田奈良家は、鹿角奈良氏の末裔なのでしょうか?
そこで今回は、昭和42年(1967年)発行の「県政あきた 61号」に寄稿された、秋田奈良家の子孫、奈良環之助さんの「奈良家の
故地を訪ねて」の文章を読み解きながら、探って行きたいと思います。この紀行文はまさしく、秋田奈良家のルーツを辿る旅で
あったハズなのでした。ところがなかなか、奈良家ルーツの痕跡は見つからない結果だったのです。まずはじっくりお読み下さい。
いかがでしたでしょうか? 奈良環之助氏が、がっかりした姿が目に浮かびますね。何故、奈良環之助氏はがっかりしたのか?、
それは彼らが、秋田奈良家に代々伝わる伝承家伝を信じていたから、に他なりません。特に、弘治年間(1555年~1558年)に奈良
(大和国)から移住して来たという点です。この点を確かめるために、わざわざ奈良を訪れたのですからね。ところがその痕跡は、
残念ながらまったく発見出来なかったのでした。まあ鹿角奈良氏説を取る私としては、やっぱりなあ、と思ってしまうのですが、
この寄稿文からは逆に、鹿角奈良氏説を裏付ける手がかり(状況証拠)が書かれているのです。これらを、細かく見て行きたいと
思います。まず最初に環之助氏は、奈良家に代々伝わる、弘治年間に大和国(奈良)から移住して来た、とする家伝の証拠を探す
様子が描かれています。しかし当然うまく行きません。一族の系図があることも紹介しています。この系図は、6代目奈良喜兵衛
(寛永五年~元禄五年=1628年~1692年)から書き始められているそうですが、弘治年間(1555年~1558年)まで遡るには、代数
が少し足りないと言っています。この意味お分かりでしょうか?死んだ年ではなく、生まれた年が重要なのです。6代目が1628年に
生まれているので、5代目は1608年頃、4代目は1588年頃、3代目は1568年頃、2代目は1548年頃、初代は1528年頃に生まれている
事になるのです。とすると、弘治年間に初代が奈良氏一族を率いて秋田に入植した年齢は、27~30歳ぐらいだったとなり、初代族長
としては、少し若すぎる訳です。それで環之助氏は、代数がちと足りない、と言っている訳なのです。では私が主張する、九戸の乱
(1591年)後であればどうでしょうか? 初代は、60代ぐらいになるのですよ、族長としては、ぴったりじゃないでしょうかね?
また怪しい情報例として、楠木正成の家臣、左近将監が出羽に来て、豊川(秋田県潟上市昭和豊川)の奈良家の祖になった?、
との伝説を紹介していますね。まったく荒唐無稽に見えますが、私これ、全部デタラメと言う訳ではないかも?、と思っています。
何故なら武家奈良氏の先祖として、吾妻鏡の承久の乱、宇治川合戦の記録の中に、奈良左近将監=奈良五郎?が登場しているから
です。ですから武家奈良氏の末裔が、秋田(豊川)奈良家であるならば、先祖に奈良左近将監がいた、との話し自体は、まんざら
ウソではない訳なのです。ただ、時代が南北朝期で楠木正成の家臣だったという点は、伝承の伝言ゲームのなせる業なのだろうと
思われます。奈良左近将監であれば、奈良五郎時代(頼朝時代)に、出羽ではないが奥州には来ていましたからね。鹿角奈良氏の
祖にもなり得る訳です。頼朝の奥州征伐と、北畠顕家の陸奥下向を混同したのかも知れません。まあ惜しむらくは、奈良環之助氏
が、吾妻鏡を読んでいたらなあ、と思います。東大卒ではあるんですが、農学部出なんですよね、農学部じゃあ、吾妻鏡など勉強
しないわなあ、、、。
その他の例として、豊川(秋田県潟上市昭和豊川)には秋田奈良家の菩提寺、長福寺があり、近辺には奈良姓が19軒、南都姓が
10軒もあり、位牌場には奈良姓と南都姓の位牌がずらりと並んでいる、と書かれています。これはつまり、奈良姓だけではなく、
南都姓も大和国から移住して来た、秋田奈良家の一族である、と言う記述です。南都とは、いかにも奈良(大和国)っぽい姓では
あります。南都=奈良ですからね。しかし実は重大な疑義があるのです。現在の奈良県には、南都姓などいないのです。南都姓は
極めて稀な姓で、名字由来netによれば、1番目が兵庫県姫路市で約170人、2番目が秋田県潟上市で約50人、なのだそうです。
2番目の秋田県潟上市にお住まいの南都さんは、多分ほとんどが豊川にお住まいなのだろうと判ります。つまり、奈良県には、南都
などと言う姓は、存在しないのです。ではどうして秋田奈良家の一族が、南都を名乗っているのでしょうか? 私は、秋田奈良家の
一族が、奈良から来たことを敢えてアピールするために、南都姓を名乗ったのだと考えます。つまりカモフラージュ(偽装)です。
本当はどこから来たのかを、知られたくなかったからです。では本当はどこから来たのか?、それは当然、鹿角からです。鹿角を
逃れて、秋田へ落ち延びて来たのです。その出自を隠すために、敢えて南都姓を名乗った訳なのです。多分一族全員が奈良姓だと
マズイ、と思ったのでしょう、奈良だから南都、という連想ゲームで南都姓になったと思われます。一族誰も大和国に行った経験
は、無かったのでしょうね。落人の悲哀なのです。(まあ姫路市に南都姓が多い理由は、別途考える必要があるとは思いますが。)
とこのように、秋田奈良家が大和国出自ではなく、鹿角から逃れて来たと考えられる状況証拠は、いくつもあるのですが、決定的
証拠ではありません。秋田奈良家が、鹿角から来たという証拠は無くとも、少なくとも大和国から来たのではない、という何か
決定的証拠などは、この文章の中にないのでしょうかねえ?(次回へ、)




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