いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
またぞろ、中国共産党による日本に対する誹謗中傷が激化していますね。まあ毎度のことですが、日本人としては辟易するばかり
です。この反日キャンペーンに、右往左往で付き合わされる大多数の中国国民も、いい迷惑でしょうね。日本を愛する中国国民の
方々は、是非とも不服従を貫いて頂ければ、と思います。多分1年もすれば、また風向きは変わりますよ。
前回は、鹿角由来記の大湯村の記述から、天正十九年(1591年)の九戸政実の乱による鹿角奈良氏(大湯氏)の滅亡を見て参り
ました。しかしこの記述だけでは、九戸の乱の状況は良く判りませんね。まあ鹿角由来記が書かれた江戸前期の南部の人々にとって
は、九戸の乱は自明の事だったのかも知れませんが、記憶も薄れ、九戸一揆反乱軍を憐れむような伝承(九戸神社)も出て来たので、
南部藩(南部信直)側もこれはまずいと思い、「南部根源記」「九戸記」などを執筆させたのだ、と考えられます。鹿角由来記等も、
その一環として南部氏側から執筆されたのかも知れないのです。情報操作ですわね。つまり、九戸方と南部信直方・豊臣方では、
この乱への見方や解釈は、当然真逆な訳ですから、九戸方の史料が無いため、本来の九戸の乱の史実は、実は藪の中な訳なんです。
従って今回は、現存している豊臣方の数少ない一次史料を元にして、後の南部信直方の主張を、批判的に読み解いて行きたいと思い
ます。で、今回の掲示文書は、九戸反乱軍が立てこもる九戸城を攻める豊臣軍(奥州再仕置き軍)の前線司令官(代官)である浅野
長吉(浅野長政)が、三迫(宮城県栗原郡)の豊臣軍の本陣(総大将:豊臣秀次)に宛てた、戦況報告書(浅野長吉書状写し)の
書き下し文(大日本古文書家わけ第二:浅野家文書)部分です。天正十九年9月14日付けですので、第一級の一次史料と言えます。
曰く、「豊臣秀次様のご命令により、蒲生氏郷軍とともに、豊臣秀次様から堀尾吉晴軍、徳川家康様より井伊直政軍の援軍を受けて、
南部領内に進軍しました。9月1日には姉帯城と禰曾利城(根反城)を陥落させましたところ、端城にいた兵達は、九戸城へと退却
しました。そこで翌2日には、早くも九戸城の堀際まで攻め寄せましたところ(九戸方が降参して来たので、)九戸政実一味は髪を
剃り出頭してきたので、その妻子ともども豊臣秀次様本陣へ送り届けるよう申し付けました。その他の悪徒人どもは悉く首を撥ね、
その数150余りの首を、本陣へお送りしました。また、櫛引清長と申す者も出頭してきたので、これも妻子ともども秀次様の本陣
へ送り届けました。 以降、戦後処理中の報告。 9月14日 長束正家(お奉行)殿、」と読みましたが、いかがでしょうか?
淡々とした戦況事務報告と感じますでしょうかね? しかしですねえ、この報告書、実際はかなりウソと誇張が多い可能性が高い
文書なのです。(まあもっとも、当時の九戸の乱の一次史料は、この文書しかないので、死人に口なし、ではあるのですが、、、、)
例えば浅野長政軍について言えば、天正19年9月より1年も前から、奥州仕置き軍の前線司令官(代官)として、南部領内での
九戸の乱の前哨戦である、和賀・稗貫一揆から、ずっと戦いを繰り返して来ている訳です。 その浅野長政の奥州仕置き軍ですが、
実は連戦連勝などではなく、和賀・稗貫一揆では、敗北してもいるのです。(※家臣浅野忠政は、南部信直軍に救出されている。)
この一揆側の勝利があったので、翌年正月の南部領内では、九戸氏を中心とする反南部勢力が、一斉蜂起する結果となったのです。
ですから浅野長政軍は、9月に進軍を開始した訳ではなく、実はそのずっと前から、九戸方と戦い続けて来ていた訳なのです。
ちなみに九戸一味として三迫(さんのはざま)で処刑された、我が鹿角奈良氏の惣領家 大湯四郎左衛門の城「大湯鹿倉城」が、
南部信直の家臣で花輪領主の大光寺正親(※鹿倉城の看板にある大光寺光愛じゃありませんよ、)に攻められ、激戦の末落城し、
九戸城に逃げ込んだのも、当然9月以前のことでした。まあ、勝ったり負けたりだったのでしょうね。後に書かれた戦記等では、
九戸方が勝利するシーンが、何度も描かれています。何故九戸方は、それほど強かったのでしょうか? 私は津軽氏(津軽為信)
が、九戸方の同盟者(支援者)だったからだ、と思っています。なので、大湯奈良氏の亡命者達を受け入れているのです。
津軽為信とは元々、大浦為信と言って、南部氏の一族(同族)であったからです。 ※まあ九戸氏も、南部氏一族ですがね。
津軽為信は、南部信直の憎きライバルで、この津軽と南部の地域対立関係は、何と令和の現代まで、青森八戸地方などで続いて
いますけどね、、、。元々の原因は、津軽為信と南部信直の対立から始まり、何故か青森VS岩手の地域対立になったのですよ。
ところがです、6月には豊臣秀吉より津軽為信に対し、九戸一揆鎮圧を命じる朱印状が出されているのです。この命令により、
津軽為信は、九戸方に味方することが、出来なくなってしまったのです。こうして第二次の奥州仕置き軍が編成されました。
こうなっては、いくら強い九戸政実とは言え、単独では勝てません。そこで籠城戦に打って出た訳です。多分1ヵ月、冬まで持ち
こたえれば、勝機はある、と考えたハズです。(旧暦の9月は、今の10月です。)ところが豊臣仕置き軍が9月1日に進軍を開始して、
九戸城を取り囲んだ翌9月2日には、すぐに投降してしまっている訳です。籠城戦を覚悟しながら、いくら何でも投降が早過ぎる
訳です。ところがこの文書では、投降の経緯などについては、何も書いていないのですね。何故か突然!、九戸一味が髪を剃って
投降して来た、と書いている訳で、ホント不自然なんです。(まあ秀吉軍としては、太閤様のご威光にひれ伏したと、喜ぶかも知れ
ませんがね。)しかし小田原城攻めの時と同様に、九戸方に対する何らかの開城説得の交渉は、当然あったと考えられるのですが、
この報告書では、何故か一切書かれていません。城を包囲すると、その日の内に、九戸方は、剃髪して投降して来た!、と書いて
いる訳です。まあ実際にも、あり得ない話しなんです。ですから、まずここに嘘がある訳なんです。しかし九戸の乱の首謀者達は、
皆殺しにされてしまっていますので、真相はやぶの中、になっているのです。(誰が皆殺しにさせたのか?、なんですが豊臣が?)
そこで親九戸派からは、反逆者九戸一味の汚名を晴らすために、うわさ話しが流されるようになります。これが、現在の二戸市
市民の間にも広く浸透している、「九戸氏の菩提寺長興寺の薩天和尚による、降伏すれば命は助けるという偽りの和議、」伝説なの
です。この「偽りの和議作戦」を考えたのは、豊臣軍の蒲生氏郷なのだそうです。まあ真実かどうかは不明ですが、あり得る話し
ではあります。私はこの噂を流したのは、九戸政実方への関与を禁じられた、津軽為信だろう、と思っています。反南部信直側
だからです。つまり、九戸方にとって九戸の乱とは、豊臣政権対九戸方の戦いなどではなく、南部信直だけに対する反乱だった、
という認識だったのです。極端に言えば、豊臣秀吉軍(仕置き軍)など、戦う相手などではなかったのです。ですから豊臣軍に
対しては、あっさりと降伏している訳なのです。(しかし結果、全員皆殺し!、、、、 これ、南部信直側の意向だと思いますよ。)
だって生かしておけば、また再び、南部信直に対する反乱が起きるからです。しかし南部氏内部だけの勢力争いだったとしたら、
何故、奈良氏を含む鹿角の領主達が、この南部氏内部の紛争に巻き込まれてしまったのでしょうかねえ?、鹿角四氏は、南部氏
とは直接関係のない武家氏族だったハズなのですが?、、、、(次回へ)



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