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奈良姓の歴史概説14:鎌倉期~室町期の鹿角四氏の行方とは?Ⅱ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

先週は、ブログの更新をお休みさせて頂きました。親族に不幸があったため、バタバタと北海道に帰省していたのでした。

まあこの歳になりますと、このような緊急事態が頻繁に起こるようになりますので、日頃から準備しておく必要があるなと、

痛感した次第でした。次は誰かなあ、、、、

 

 さて前回は、秋田県鹿角市大里にある、史跡大里城跡の説明看板を元に、大里城の説明が、鹿角由来記の記述と、まるで

違う点を見て参りました。鹿角由来記では、安保氏が鹿角のリーダーであったように書いてありながら、大里城の説明看板

では、成田氏が鹿角のリーダーであった、と書いてあったからですね。戦前の皇国史観と成田氏家伝によるフェイク情報が、

こんな場所(失礼!)にまで、及んでいることが、明らかになったのでした。この状況を、払しょくしなければなりません。

 

 そこで今回は、鎌倉期から続く成田氏が、鎌倉後期から南北朝期にかけて、安保氏系に系統が変わって行った歴史を論証

した文献を紹介することによって、関東だけでなく、鹿角も同時期に、安保氏の影響を受けていたことを紹介して行きたい

と思います。つまり、万世一系を主張する、成田氏家伝自体が、実は間違っていたのだ、という証明にもなるのです。

さてそこで今回の掲示写真(左側2枚)は、鎌倉期~室町期にかけての、武士団安保氏研究の第一人者である、伊藤一美氏

の論文「東国における一武士団:北武蔵の安保氏について」(1972年 学習院史学)からの一部抜粋です。まず左端文書は、

安保氏文書等から導かれた安保氏系図です。まあ承久の乱で吾妻鏡に華々しく登場した、安保實光を祖として良いでしょう。

同様に、鎌倉期成田氏の祖としては、成田七郎助綱を祖とすべきと考えます。さて奈良氏も含めてそれぞれが、源頼朝の奥州

合戦において軍功を挙げたことにより、奥州は鹿角郡にそれぞれが、右側鹿角由来記にある村々に、領地を得たのでした。

しかしその後、成田氏は衰退し、鎌倉後期~南北朝期にかけて、成田氏の領地は安保氏が引き継ぎ、安保氏系が、成田氏を

名乗るようになった、というのが伊藤一美氏の論証なのです。この論証により、Wikiの成田氏の解説でも、成田氏が安保氏系

に変わっていることが書かれている訳なのです。(※でも成田氏家伝系の解説では、現在も一切触れられていませんけどね、、、)

 

 さてそれでは、成田氏の領地が、実際にどのように安保氏に引き継がれて行ったのかを示した表が、左から2枚目の表です。

安保氏には、本領である賀美郡の他、但馬国等の領地があるのですが、特に、鹿角郡の領地の移動を中心に見て行きますので、

右側掲示の鹿角由来記の各村の記述とを、比較・参照してみて下さいませ。

まず、表の文保二年(1318年)12月の安保家文書 関東下知状によれば、安保實光の孫にあたる安保信員は、成田七郎助綱の

子、成田家資の娘と婚姻しており、死後に孫の安保行員が、鹿角郡柴内村を相続したようです。※左端の系図と表で、ご確認

下さい。そうなると、鹿角由来記にある柴内村は、最初は成田氏領で、後に安保氏領になったのだ、ということになりますね。

もしかすると鎌倉初期、鹿角入植時当初の成田氏の拠点地は、柴内村だったのかも知れませんね。なので成田氏の痕跡が、本名

以外、鹿角の各村には無いのですよ。(逆に村名と本名だけは、村の伝承として、しぶとく残ったのでしょうね。)

私は、この所領の移動の背景には、もちろん出発点としての婚姻があったにせよ、真の要因は、成田氏の衰退により、遠隔地

の所領が維持出来なくなっていた状況があったから、だろうと考えています。裕福でなければ、所領維持は出来ないのですよ。

なので以前のブログで、武蔵国の成田氏本家は、破産・潰れたのかも?と、敢えて書かせて頂いた事とも関係しているのです。

 

 続いて表の正中二年(1325年)12月の八坂神社文書 安保信阿(行員)譲り状案によれば、出家した安保行員(信阿)は、

子の安保基員へ、鹿角郡田山村等の領地を譲っている訳ですが、問題は表の領地名です。武蔵国:騎西郡成田郷地頭郡司職、

箱田村、平戸村って、これって、成田氏の本領じゃあありませんかね! つまり安保行員(信阿)の時代(1300年代?)には、

成田氏本家の本領は、安保行員(信阿)によって事実上支配されていたことを示しているのですよ。つまり鎌倉後期には既に、

成田氏本家は衰退していた、ということが判るのです。(※まだ直系統自体は、断絶はしていなかったようなんですが、、、)

 

その後更に、表の暦応二年(1339年)9月の八坂神社文書 成田(安保)基員譲り状案によれば、安保基員は、武蔵、鹿角の

前述の領地だけでなく、前年の建武五年(1338年)5月に北畠顕家が敗死し、滅んだ鹿角南朝方の牙城だった成田頼時の大里

村(大里太郎四郎在家)も、領地に加えていたのでした。即ち鎌倉成田氏は、ほぼ安保氏により接収された、ということです。

そこで安保基員は、何と成田を名乗り始めた訳です。何故か?、武蔵国賀美郡の安保氏本家は、安保光泰(丹後守)が継いで

いたからなんです。なので分家である安保基員は、領地を得て鎌倉以来の伝統ある名前「成田」を、名乗り始めた訳なのです。

暦応二年(1339年)9月の八坂神社文書には、最後の鎌倉成田氏の名前も、書いてあったようです。成田四郎太郎秀綱、成田

五郎左衛門入道ですね。その跡を継いだのが、安保基員改め、成田基員となった訳です。 ※でも江戸期創作の成田系図には、

成田基員の名前は、何故か出て来ませんけどねえ、、、。 何故か、本物の一次史料の方にだけは、名前があるのですねえ、、、

でも何故すんなりと、安保氏が成田氏を継ぐことができたのでしょうかね? それは安保氏が、南朝方ではなく、足利尊氏

であったからです。この中央の政局の影響は、国内時差や交通などあまり関係なく、関東にも奥州鹿角にも、同時期に影響を

及ぼしていたのです。つまり中世の世であっても日本は、全国統一的支配体制であった証しなのです。

 

 さてこのような伊藤一美氏の「東国における一武士団」による、安保氏の成田氏継承過程は、「第二章安保一族の所領構成と

その経営」、「(二)一族成田氏の所領」の中で詳しく論証されています。この論文は、ネットで簡単にダウンロード出来ます

で、皆さんもご確認してみて下さい。しかしながら、安保氏による成田氏の所領継承表の中で、ひとつ気になる点があります。

それは、安保氏が成田氏から吸収した鹿角の領地の中に、鹿角郡の中心都市である花輪村が含まれていない点なんです。これを

どのように考えるか?、なんです。私は鹿角由来記を信用します。鹿角郡に最初にやって来たのは、安保氏である、と書いてある

からです。つまり、成田氏が鎌倉期鹿角の統領?だったのではなく、鎌倉期に最初に入植したのは安保氏だった、という事なん

です。その根拠は、花輪に古来より続き、ユネスコの無形文化遺産にも登録されている「花輪ばやし」というお祭りの存在なの

です。この祭りは、花輪の産土神である「幸稲荷神社」の祭礼で、鹿角を代表する伝統祭礼として知られています。(飾り屋台が

町内を巡回する、京都の祇園祭のようなお祭りです。)

で、この幸稲荷神社の由緒書きには、「元久年中、奉仕の神官宅、火災に罹り、その以前の記録不明、」と書かれているのです。

逆に言えば、幸稲荷神社には、元久年中(1204年~1206年)という年代の記録は存在する、と言う訳なんですよ。元久年中以前

の記録は不明、ということですからね。つまり、鎌倉初期の元久年中(1204年~1206年)には既に、花輪の幸稲荷神社は存在

していた、ということなんです。ですから私は、幸稲荷神社と花輪ばやしは、鎌倉期の初期に鹿角に入植して来た鎌倉御家人、

安保氏(=花輪氏)一族が持ち込んだのだろうと、考えています。なので花輪は、鹿角の中心地になったのです。

このことから鹿角には、当初からの安保氏(本家筋)と、後から安保氏になった成田氏系安保氏(分家筋)が存在した、と考え

られるのです。つまり室町期の鹿角には、2つの系統の安保氏が存在し、鎌倉期から続く成田氏は、既にいなくなっていた?と、

考えられるのです。なので私は、鎌倉期から続く鹿角成田氏は、建武期での南朝方の敗北もあり、鹿角を離れ、津軽へと移住

した可能性が高い、と考えています。戦国末期に起きた、九戸政実の乱より、はるか以前のことです。この時は、奈良氏一族は、

騒動に巻き込まれませんでしたが、九戸政実の乱では、成田氏系安保氏(分家筋)である大里氏と一緒に、遂に巻き込まれる事

なってしまうのです。まあもっとも九戸の乱では、花輪の安保氏(本家筋)も、円子氏として巻き込まれてしまうのですがね。

え!?、と言うことはつまり、鹿角四氏全体が巻き込まれたのかな?、、、(次回へ)