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自民党総裁選から始まった政治の混乱は、自民と維新がくっ付きそうな予感で収まりそうな気配ですが、首相が決まっても、混乱は
続くように思えます。結局少数与党政権ですからね、各党合意は簡単に崩れ去るのですよ。結局物価高対策などの政策の実施は、
なかなか前へ進みません。政治の停滞に業を煮やした国民は遂に、強権政治を求めるようになります。民主政治終焉の危機ですよ、、、
さて前回までは、讃岐奈良氏の由来と終焉について、「南海通記」や「西讃府志」の、奈良氏についてのインチキ情報を反面教師
として、見て参りました。結局、承久の乱後に、三河国額田郡明大寺村に領地を得た東国御家人奈良氏の子孫が、鎌倉幕府の滅亡
を転機として、細川京兆家の家臣として讃岐・摂津で出世し、その後細川氏と共に衰退し、戦国期に遂に滅びるまでの歴史の流れを
、通史として追って来たのでした。
ただ、平安末期、武蔵国幡羅郡奈良村で誕生した、武家奈良氏には、滅んだ本家?、三河奈良氏以外にも、もうひとつ、支流が
存在していました。そうです、源頼朝の奥州遠征後に、陸奥国鹿角郡に領地を得た、鹿角奈良氏ですね。都から遠く離れた遠隔地
なるが故に、逆に何とか、戦国末期まで生き延びた、奥州鹿角の奈良氏の歴史を、今回からは見て行きたいと思います。
鹿角奈良氏の始祖は、建久元年(1190年)11月7日に行われた、頼朝上洛凱旋パレードの行列参加者、奈良弥五郎であろうと、
私は考えています。(多分、初代奈良五郎の弟か?) 後に、尼将軍北条政子が絶賛していたように、頼朝の奥州遠征で大活躍した
のが、安保次郎實光らに代表される武蔵国の御家人達でした。奈良五郎と並び、奈良弥五郎も、奥州の合戦で軍功を挙げたので、
頼朝より鹿角の地を与えられ、上洛凱旋パレードにも参加したのでした。ただし、鹿角の地は、奈良氏だけに与えられたものでは
ありませんでした。何せ下級御家人ですからね。と言う訳で、鹿角郡は四氏族に対し、分割統治という形で与えられたのでした。
すなわち、成田氏、安保氏、奈良氏、秋元氏の四氏族だった、というのが、今回掲示の「鹿角由来記」の左端冒頭部分なのです。
「鹿角郡四天侍之事」ですね。まあ私は、秋元氏は後に、四天侍に加わったと考えていますけどね。何故なら秋元氏とは、元々、
鎌倉初期からの名族で、奥州合戦でも軍功を挙げた宇都宮頼綱の子孫が立てた氏族名だからです。ですから当然、奥州合戦後の
恩賞は、宇都宮氏に対し、鹿角も与えられたと考えられるからです。つまり宇都宮氏が子孫の秋元氏に、鹿角を譲った訳です。
ですから、秋元氏は後から加わったのだ、と言えるのです。
「鹿角由来記」とは、17世紀頃に書かれ、天保三年(1832年)に小笠原謙吉なる人物により校訂されたとする、戦国期以前の
鹿角郡の由来や各村の生い立ち伝承等をまとめた古書で、南部藩に伝わる江戸期の古文書類を、昭和初期にまとめた「南部叢書」
の第一巻に収録されています。(写真は、国立公文書館蔵のもの。)
従って「鹿角由来記」を読み解く上で大事な点は、17世紀(江戸初期)時点での南部藩各村の由来を、江戸末期の視点から見た
文書である、との認識です。つまり鎌倉期や南北朝期、室町期の記憶などは、既に忘れ去られているかも?、という視点なのです。
あくまでも戦国末期まで伝え続けられて来た断片情報のみの抽出が、重要になるのです。それも南部藩側からの視点で、なんです。
と言う訳で、早速まずは「鹿角郡四天侍之事」(左写真、左頁)を見てみましょう。
まず「都から、まず安保氏だけが鹿角郡に下って来た、」だそうです。これをどう読むのか?、です。奥州藤原氏の領地であった
鹿角郡に、東国武蔵国出自の安保氏が地頭として派遣されていることを考えると、時代は頼朝の奥州遠征後、と考えて良いと思
われます。安保氏が入植当初のリーダー的存在であったことも、多分正しいように思われます。都より、と書かれているのは、
江戸期当時既に、いつ頃彼らが鹿角に入植して来たのか、判らなくなっていたことを表しています。鎌倉時代ではなく、南北朝期
かも?と考えたから、都よりなのです。ただし、上総国出自の秋元氏が、安保氏や成田氏、奈良氏と一緒に、頼朝の奥州遠征後に
入植したのかどうかは、私は疑問だと考えています。何故なら、下野国出自の宇都宮氏の庶流である秋元氏が誕生したのが、早く
ても承久の乱後の13世紀以降のことだからです。なので秋元氏は、3氏(安保氏、成田氏、奈良氏)とは別に、後から鹿角にやって
来たのだろう、と考えるべきと考えます。そしてリーダー的存在であった安保氏には、大里、花輪、柴内の三拠点が存在していた
のだそうです。私は安保氏の最初の拠点は、花輪であったであろうと考えます。現在でも、歴史のある鹿角の中心地だからです。
一方奈良氏は大湯村の一拠点のみです。まあその後、新斗米村や小枝指村等、若干の領地拡大はあったようですがね。でも成田氏、
秋元氏に至っては、拠点領地すら鹿角由来記には書かれていません。成田氏の毛馬内?、最初に登場する毛馬内備中とは、鎌倉期
成田氏系ではありませんよ。室町期の事と考えられますので、私は安保氏系だったと考えます。(後で説明します。)その後、三戸
南部氏の南部晴政が勢力を拡大したので、天文年間(1532年~1555年)の南部晴政の時代に、三戸南部氏系の南部靫負信継が入部
して来ているのです。ですからこの記述は、鎌倉期入植時の勢力ではなく、鹿角四氏の支配が終わる直前の、戦国期の鹿角四氏の
勢力図を反映したものだと、考えられるのです。その意味で毛馬内は、鹿角における三戸南部氏の拠点ですから、鹿角の伝統に
則り、本名成田と称していても、既に本来の成田氏の拠点では無くなっていたのです。戦国期の鹿角四氏とは、安保氏、奈良氏、
秋元氏、南部氏、だったかも知れません。つまり鎌倉期以来の成田氏は、既に外れていた可能性があるのです。(理由は後ほど、)
なので、戦国末期においても鹿角では、実は安保氏が一番の勢力だった訳です。このことは、鹿角入植時(承久の乱)に尼将軍の
北条政子が、頼朝の奥州遠征時の安保氏の活躍を褒めたたえた状況から、一貫して変わっていなかったのだろうと、考えられるの
です。(吾妻鏡より) この鹿角の状況が激変したのは、最後の戦国合戦と言われる、九戸政実の乱後のことなのです。
一説に、成田氏が鹿角のリーダーであったと言われていますが、これは南北朝期の北畠顕家の時代に限定される、一時的状況だっ
た、と私は考えます。何故ならこの時期、鹿角安保氏もまた、足利尊氏方であったからです、つまり朝敵だったのですよ。なので
成田頼時が、南部師行とともに、鎮守府大将軍北畠顕家の元で、南朝方鹿角郡代(国代?)としてふるまったのも、建武期だけの
一時的なことだったのです。それ以前の鎌倉期に於いては、成田氏より安保氏の方が、御家人的立場は上であったと考えられます。
鹿角郡の中心都市である花輪が、安保氏の拠点であったことからも明らかです。鹿角由来記の記述だけでなく、現在ユネスコの
無形文化遺産にもなっている花輪の祭り「花輪ばやし」は、花輪の幸稲荷神社の祭礼なのですが、この幸稲荷神社の由緒は具体的
で、元久元年(1204年)以降とされています。鎌倉初期ですわね。ちょうど安保氏が入植して来た時期なのですよ。
そして幸稲荷神社も花輪ばやしも、令和の現在まで、続いて来ている訳です。それに引き替え、鹿角における成田氏の痕跡は、残念
ながら現在は、何も残っていない状況なのです。南朝方は敗北したから、です。 南部氏は北朝方に転じ、生き延びましたけどね。
まあしかし、鎌倉幕府が滅亡して、安保氏が一時衰退すると、南朝方である鹿角成田氏の立場が上昇したのでした。ただその後、
足利尊氏が南朝方北畠顕家に勝利し、安保氏に安保光奏・安保実員が出ると、関東においては安保氏支流が、成田氏を名乗るように
なりました。同様に鹿角安保氏も、鹿角成田氏を接収し、再び安保氏が、鹿角四頭(氏)のリーダーとなったのでした。
このあたりの経緯は、伊藤一美氏の安保氏研究論文、「東国における一武士団」(学習院大学史学)をお読み下さい。
なので鹿角由来記では、戦国期頃の鹿角に於いて成田氏の影は、既に薄くなっていたのでした。それ以前に成田氏は、南朝方の敗北
により、徐々に津軽の地へと、移住していたからだろうと、私は考えています。(現在の人口動静の観点から、)
つまり、都から遠く離れた鹿角の地とは言え、鹿角の地だけ独自で動いていた訳ではなく、絶えず都や関東の情勢から影響を受けて、
鹿角も同時に動いていたことが、明らかなのです。
ではその後、鹿角四氏の滅亡に至る戦国末期まで、鹿角四氏は、一体どのように動いていたのでしょうか? あれ?、全然奈良氏が
出て来ませんけどねえ、、、、(次回へ)




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