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奈良姓の歴史概説12:室町後期の奈良氏の行方は?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 自民党の総裁選で高市早苗さんが選ばれ、自民党が復活出来るかどう

か、話題になっていますが、まあ難しいだろうと見ております。何故

なら、若い世代(現役時代)は、もはや自民党支持には戻らないと思

われるからです。選択肢も増えているので、今更自民党支持に戻る理由

が無いからです。ますます少数政党が乱立する状況になるでしょうね。

公明党も連立から離脱したそうですからねえ、益々不安定化しますよ。

覆水盆に返らずは、自然法則の大原則ですわねえ、、、。

 

 さて前々回までは、東寺百合文書の発見により、細川京兆家の被官

としての奈良氏の存在が証明されたにも拘らず、前回の香西成資による南海通記(南海治乱記)の記述により、奈良氏の歴史が歪められて行く

状況を見て参りました。その原因は、香西成資の無知とやっかみの結果

なのでした。ただ、歴史上の記述の間違いは、その後の史料発見などに

より、修正されて行くのが一般的なのですが、逆に香西成資の間違いを、そのまま踏襲してしまった公式文書が、幕末に

発刊されたのでした。今回掲示の、「西讃府志」といいます。

西讃府志とは、幕末の1839年に丸亀藩の命により編纂された、西讃岐(丸亀)地域の地誌です。関東で言えば、江戸幕府

(昌平坂学問所)により編纂された、新編武蔵風土記稿と同様の、当時の公式地誌であった訳なんです。ですから当然、

西讃府志の記述には、それなりの権威付けがなされました。いい加減な個人の見解などとは、違う訳だったのです。

 

 で、西讃府志の中には、細川氏被官の部があり、讃岐奈良氏についての記述もあるのでした。今回の掲示は、その部分です。

どのように「公式解説」は書いているのか?、なんですが、実はかなりいい加減な記述なのです。まずは、「奈良氏の出自は、

東国らしいが、良く判らない、」のだそうです。そして「応仁(細川勝元)の頃、太郎左衛門元安という者が現れ、細川氏の

被官となり、香川、香西、安冨氏らと同じく、四天王と称されるようになり、鵜足(宇多津)、那珂の2郡は、公家の領地で

あったが、細川氏は(元安を)、馬回り(警護役)の武士として、その所領を与えた。」のだそうです。皆さんもご確認下さい。

これ、前回の「南海通記(治乱記)」の記述と、まったく同じですわね。奈良氏についての、香西成資の出まかせが、そのまま

丸亀藩の公式見解になったのですよ。逆に言えば、丸亀藩には、讃岐奈良氏についての記録が、「南海通記(治乱記)」以外には

何もなかったことを表しています。香川景助の「讃州細川記」すら読まれていなかったことが判るのです。いわんや、当時の

丸亀藩士達は、「東寺百合文書」など、知る由もありませんしね。こうしてこの讃岐奈良氏についての記述は、藩の公式見解に

なってしまったのでした。なので現在でも、一部の史料解説には、「讃岐奈良氏とは、馬回りの被官奈良元安が、細川勝元の頃に

突然現れて、細川四天王と呼ばれるようになった。」などとするインチキ解説が、多数見られるのです。早く訂正されるべき、

なんですけどねえ、、、。誰も奈良氏を知らないもので、、、、

 もちろん讃岐宇多津は、突然現れた奈良元安?が、細川勝元の時代に与えられた所領?、などでは、断じてありませんよ!!

ちなみに私は、奈良元安の父親の名前は、奈良備後守元定であったと考えています。北野神社文書や、教王護国寺文書に、

名前が登場しているらしいからです。つまり讃岐奈良氏は、奈良五郎左衛門以降、連綿と、細川京兆家家臣として続いて来て

いる訳です。突然現れた訳ではないのですよ。(ただし、南海通記の奈良元安とは、奈良元定の誤記だった可能性も?、、、、)

 

 私はこの、ウソが真になる現象は、成田氏における「新編武蔵風土記稿」の記述の影響と同様の現象だろうと思っています。

怪しげな成田氏家伝が、江戸幕府刊行の「藩翰譜」や「新編武蔵風土記稿」によって権威付けられ、現在でも熊谷市内の一部

の郷土史家らによって、堅く信じられているからです。ウソが真になる歴史記述は、実は現代までも、続いているのです。

 

で、西讃府志の記述に戻ります。「奈良元安は、宇多津に城(聖通寺城)を築き、住んだ。」のだそうですが、無論、奈良元安

ではありませんよね。元安の時代から100年あまり遡る、1362年の白峰合戦(高屋合戦)で戦功を挙げた奈良五郎左衛門が、

細川頼之より宇多津の地を与えられ、城(聖通寺城)を築いているからです。※奈良五郎左衛門の名前は、讃州細川記では、

奈良太郎になっていますけどね。まあこれくらいは、致し方ない方でしょう。

続いて、「奈良元安の子は、備前守元信と言った。京都に住んで細川管領家の事を執り行った。なので、近畿にも奈良氏の所領

があった。」とのことですが、まあ名前の方は、怪しいところですが、日常業務は、記述通りだと考えています。つまり若い時

は、各有力被官子息は、近習(小姓)として、京都の管領家に仕えたのですよ。そのための所領(摂津垂水荘)だった訳です。

奈良備前守元信の記録は、細川政元の代「後鏡」の1487年12月8日付の記述にもあるようですので、実在はしていたようです。

その後奈良元信の記録も、1493年の記録を最後として、以降名前は見えなくなります。やはり西讃府志にあるように、元信の

子、元政(治乱記では勝政?)の代に奈良氏は滅んだのでしょうかね? 少なくともこの頃、宇多津や那珂の所領は、失った

ようですが、滅亡ではなく、衰えたということです。奪ったのは、香川氏あたりかなあ?、、、年代としては、1500年代初頭と

思われます。理由は、後ろ盾である細川京兆家自体の力が、内紛で衰えたからです。(細川政元⇒澄之、澄元、高国の頃です。)

その後はかろうじて、津郷二村川津等数村の所領に留まっていたようですが、三好氏に仕えた?、という説もあるようです。

そして天正十年(1582年)遂に、長曾我部元親によって滅ぼされてしまいます。西讃府志ではこの間、ずっと奈良元政の代?

として描かれていますが、滅ばされたのは7~80年後ですから、当然奈良元政の子孫であろうと考えられます。名前も不明な

子孫な訳です。戦で滅んだ奈良氏当主の名前も不明なのですから、西讃府志にある奈良家家臣?の名前も当然、軍記物特有の

架空名なのですよ。なので変な名前が多いのです。

 

こうして讃岐奈良氏は滅んでしまったのですが、西讃府志の記述では、摂津垂水荘に逃れていた奈良氏の子孫達は、豊臣秀吉の

四国平定後、宇多津に帰り、津郷村に逃れ住んだ、とありますので、農民に戻ったのだと思われます。当然、奈良氏の領地では

なくなった摂津垂水荘に残された奈良氏の末裔も、垂水荘近辺で、元の農民に戻ったことが考えられるのです。(武士とは元来、

農民の親玉ですからね。) なので現在でも、香川県の西讃地区や、垂水荘のあった大阪府吹田市・豊中市近辺には、何故か、

奈良姓の人口が、現在でも多いのですよ。(名字由来netや、なまえさあち、あたりで、人口比率を検索してみて下さいな。)

まあこのように、三河奈良氏~讃岐奈良氏の系譜は、戦国期、遂に途絶えてしまった訳なんですが、その頃遠い奥州鹿角の地で、

何とか生き残っていた、陸奥国鹿角郡の奈良氏の子孫・末裔達は、一体どうなっていたのでしょうかね?(次回へ)