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当方の都合により、1週間のお休みを頂戴しました。実は、京都に住む娘に、孫が生まれたもので、会いに行っていたのです。
先週は、京都市内の神社で、お宮参りに参加させて頂きました。京都は伝統を重んじる土地柄なので、お宮参りに行く神社も、
住む地区ごとに決まっているのですね。地域の氏子・氏神様の世界ですね。で、娘夫婦の住む地区では、元祇園 梛神社という
神社に参拝しました。祭神は、素戔嗚尊(スサノオ)だそうです。まあお宮参りの儀式自体は全国同じようなもので、15分程
で完了しましたけどね。多分孫には、京都に生まれたお陰で、これからも色々、伝統行事が続いて行くのでしょうなあ、、、。
さて前回までは、鎌倉期に三河に移住した奈良氏の一族が、南北朝期に、同じ三河の細川氏の被官となり、細川京兆家の出世
に伴い、奈良氏も一緒に出世していく様子を、「讃州細川記」や、国宝の「東寺百合文書」から、見て参りました。少なくとも
南北朝期(室町初期)の奈良氏の存在については、以上の史料により、確実に証明された訳なのですが、その後の奈良氏は、
一体どうなって行ったのか?が、今後のテーマになります。
で、今回の掲示文書は、江戸期の享保3年(1718年)に、同じ細川氏の被官であった香西氏の末裔、香西成資によって書かれた、
「南海通記」(国立公文書館蔵)の一部です。順番は、左写真⇒右写真へ、です。南海通記とは、香西成資が四国(南海道)の
中世史をまとめた「南海治乱記」を補訂し、改めて刊行した戦記通史です。この中に、奈良氏の名前も登場している訳なのです。
まずは左頁から、「細川定四臣記」だそうです。「室町幕府管領となった細川勝元(1430~1473年)が享徳年間に2度目の管領に
就任した時に、四人の重臣を定めた、」のだそうですが、この細川四天王のひとりに、奈良太郎左衛門尉元安の名前が、登場して
いるのです。まあもちろん著者の先祖である香西元資も、当然四天王に入っているんですけどね。でもこの書き方、以前紹介の
香川景助による讃州細川記の「細川諸士之事」と、非常に良く似ていますよね。自分の家系自慢の、典型的な書き方のようです。
まあしかし、どちらにも、細川氏の重臣として、奈良氏が登場していますので、奈良氏の存在自体は、間違いのないところです。
ところが讃州細川記、東寺百合文書では、細川頼之・頼元兄弟の家臣として登場していた、奈良五郎左衛門の時代(1360~70年
代)から、今回の南海通記の細川勝元の時代(1450~60年代)まで、約100年が経過している訳なんですが、読み進めてみると、
奈良氏についてだけは、まるで情報が、継承されて来ていないことが、良く判るのです。
つまり、江戸期の香西成資は、奈良氏については、実は何も知らないことが判るのです。例えば彼は、「那珂・鵜足(宇多津)の
領地は、藤橘(貴族)の領地だったが、近年、細川家馬回りの武士である奈良太郎左衛門尉(元安)に与えられた?」、などと
書いていますが、まるで事実無根な訳です。実際には、100年前の細川頼之の代に、奈良五郎左衛門に与えられているからです。
何も知らないくせに書くなよ!、と言いたいところです。ところが、讃州細川記に比べ南海通記は、世間に広く普及したものです
から、多くの人々が、この記述を信じて引用してしまった訳なんです。そのお陰で現在でも、「讃岐の鵜足(宇多津)・那珂の2郡
は、細川勝元が奈良元安に与えた、」とする解説書が、広く出回っています。(コレ間違いですよ。)まあ、フェイク情報が真実?
として拡散する、好例なのでしょうがねえ、、、。(※実際には、細川頼之が、奈良五郎左衛門に与えた、が正解です。)
香西成資のウソは、まだ続きます。「奈良氏の本領は機内にあり、その子弟を宇多津の城に住まわせた。」のだそうです。この認識
も、間違い(真逆)です。摂津垂水荘は、本領ではありません。奈良氏が最初に領地を得たのは、宇多津の聖通寺城だからです。
(※三河の旧領は、鎌倉幕府の滅亡とともに消滅しています。またこの事は、細川氏の旧領細川村についても同様です。)
摂津垂水荘の方は、その後に、細川頼元から与えられた領地なので、本領ではないのです。ですから香西成資は、歴史をしっかり
把握していないことが判るのです。何故彼は、この様な認識に至ったのか?、なんですが、「細川家馬回りの武士(警護担当)
だった奈良氏」という、やや見下した歴史伝承が、江戸期の代々香西家内に、長く存在したからだろう、と考えられるのです。
実際の頼之・頼元時代の奈良氏は、細川氏の家宰(執事)的立場であったからです。(康暦の政変で、頼之・頼元兄弟の一族が、
四国に落ち延びた際、最初に身を寄せたのが、宇多津の奈良氏の居城聖通寺城ですからね。)どうしてなのか?、理由は細川氏と
奈良氏は、三河以来の盟友であったから(地縁)、ですね。その立場をやっかんだ香西氏(香西氏は、讃岐の在地武士だった)は、
奈良氏を馬回り役(警護役)と、侮蔑して呼んだ訳なんですよ。まあ、その香西氏は、戦国期には長曾我部氏に臣従して生き残り、
逆に讃岐奈良氏は、長曾我部元親に滅ぼされてしまっていますからねえ、、、。
さてその続き、「香川、安冨、奈良は、東国の姓氏(出自)である。」は、まあその通りです。ついでに、細川家も東国の出自だ、
とも言って欲しいところですがね。また、「細川家に属して(従って)讃岐国に来た、」は、正確ではありません。三氏は、白峰
(高屋)合戦の戦功により、細川頼之より領地を与えられて、讃岐に入部しているからです。ですから、「三氏がいつ讃岐に来た
のか判らない、」との記述は、単に著者香西成資の知識・勉強不足によるものです。
更に、「四天王の嫡子四人は、在京して細川管領家の家事を執行した、」という表現は正しいと思われます。つまり主家の小姓と
して仕えたのですね、つまり本領は讃岐にあった、ということなんです。なので畿内の領地(摂津垂水荘)は食邑(在京手当)
なのです。香西成資、自分で書いていながら、この記述の矛盾に気が付いていないようですわね。
と、このように、讃岐奈良氏については、ウソばかりの南海通記なのですが、これらのウソ記述が広く世間に信用されたの
には、実はもう一つの文献史料が、強く影響していたのでした。その書物とは「西讃府誌」といいます。西讃府誌に讃岐奈良氏
は、一体どのように書かれていたのでしょうかね?(次回へ)



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