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奈良姓の歴史概説10:室町初期の奈良氏とは?Ⅲ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

自民党の総裁選挙が決定し、選挙戦(権力闘争?)が激化することにより、更に10月中旬までの政治空白が続く事態に、なって

しまいました。まあ誰が総裁になっても、政治空白が続いても、世の中は劇的には変わらない、との見方が、日本では一般的なの

ですが、一方で米国では、劇的に世の中を変えるべき、と考える人々(トランプ派)が増えて来ました。彼らは、現状の民主主義的

手法ではもはや、世の中は変えられないと考えています。なので、常識(民主主義的考え方)をぶち壊す、という手段を取ります。

従来の見方・考え方を全否定するんです。そして従来の常識の真逆を行おうとします。実はその行為に、理屈はありません。感情的

・感覚的に真逆を主張・実行するのです。それが劇的に世の中を変える唯一の手段だ、と信じているからです。 コレある意味、米国

の壮大な実験なんですが、日本でもこの考え方が、ネトウヨを中心に広まって来ていますわね。この流れに反対抵抗する人々は多分、

オールド国民とか、極左!、などと呼ばれることになるのでしょうねえ、、、。

 

 さて前回は、前々回の讃州細川記で発見した、細川頼之の家臣としての奈良氏(奈良太郎?)の名前を、東寺百合文書の中

より、弟の摂津国守護細川頼元が、1376年3月に、奈良五郎左衛門入道に宛てた文書の発見により、奈良氏の名前を再発見させて

頂きました。何せ、国宝の第一級一次史料ですから、細川頼之、頼元の重臣としての奈良氏の存在は、もはや誰も否定出来ない

存在になったのでした。もうWikipedia等にも、文句は言わせません。

 で、今回は、前回の奈良氏についての記述を補完する、東寺百合文書の史料(掲示文書)のご紹介です。(ダメ押しです。)

文書の画像だけでは良く判りませんので、前回同様、それぞれの文書名に、東寺百合文書Webの但し書きのリンクを貼って置き

ますので、内容をご確認して下さい。もちろん、読み下し文等の、親切な解説などは、ありませんけどねえ。

まず左の文書は、「ア函/84/:摂津国守護代奈良俊阿書状案」です。日付は、永和二年(1376年)9月11日ですから、前回摂津国

守護細川頼元から、奈良五郎左衛門入道が、東寺領摂津垂水荘の下司職(現地代官)に任命された文書から、約半年後の文書に

なります。

続いて右の文書は、「メ函/303/:摂津国守護代奈良俊阿書状案」です。こちらの日付は、年が無く、9月11日になっています。

どちらの文書の但し書きも、差出人は俊阿という人物で、宛名は飯高弾正忠という人物になっています。ところが、左側文書の

端裏書(メモ)には、奈良入道状とあり、右側文書の端裏書(メモ)には、垂水荘案事文とあります。別々の文書なんですかね?

でもこの端裏書(メモ)から、俊阿とは、奈良五郎左衛門入道のことであると判明します。俊阿は出家後の戒名(法名)ですね。

事書(内容)の方は、どちらも同じで、垂水荘の下司職のことです。実はこの2文書、どちらも同じ文書内容なのです。日付も

同じですからね。ではどうして2通存在しているのか?、なんですが、どちらも写し(コピー)だから、なんです。手書きの写し

ですからね。なので、写す書き手(東寺の僧)によって、微妙に書き方が異なっているのです。(内容は、まったく同じです。)

本来はどちらか1通だけ保管すれば良かったと思われるのですが、微妙に異なっているので、2通とも保管されて来たようです。

まあ東寺側にとっては、重大事案だったのでしょうね、いよいよ所領(垂水荘)が、奈良氏に奪われるかも知れないからです。

文書名については、東大史料編纂所の方も良く調べていて、奈良五郎左衛門入道=俊阿が、当時(永和二年9月頃)摂津国の

守護代であったため、文書名を「摂津国守護代奈良俊阿書状案」にしたのでした。両文書の内容は、摂津国守護代の奈良俊阿が、

家臣の飯高弾正忠を、摂津垂水荘の下司職(現地代官)に任命した、というものです。ここから東寺側と奈良氏側の、垂水荘の

支配権をめぐる闘争が、繰り広げられて行きます。この文書以外にも、垂水荘をめぐる、奈良氏と東寺側の紛争を物語る文書が、

同じ百合文書の中に、いくつか収められています。例えば、「東寺雑掌頼憲申状案」(ア函/85/)なんて言う文書もあります。

垂水荘に元々いた東寺所属の雑掌(荘官)である僧、頼憲が、「奈良入道が、理不尽な下文を出した、」との訴えを、多分、東寺

の長者僧正(責任者)達へ起こした、とする文書だろうと思われます。今回の掲示文書「摂津国守護代奈良俊阿が、垂水荘の

下司職(代官)として、家臣の飯高弾正忠を任命した、」ことに対する、すぐの反撃報告ですわね。なのでこちらの文書の日付も

同年9月になっているんです。皆さんも、これら文書を、東寺百合文書Webで、検索・確認してみて下さいませ。

まあある意味、当時の有力武士が、貴族や寺社の荘園の支配権を奪い取って行く、典型的なプロセス事例なのだろうと、思われ

ますけどねえ、、、。(どこの荘園でも、同様の闘争が行われていた、ということです。)

 

 とは言え、三河の奈良五郎は、讃岐の細川頼之の元で、宇多津聖通寺城主奈良五郎左衛門となり、更に弟摂津国守護細川頼元

の元で、摂津国守護代奈良俊阿(五郎左衛門入道)となり、摂津垂水荘も領有するように大出世したのでした。これらの事績が、

東寺百合文書の発見により、逆に明らかになったのでした。奈良氏一族にとっては、一番の大出世頭だった、と思われますね。

これらの史実が、今まで歴史の中に埋もれていたことは、我々奈良姓の子孫にとっても、大変残念なことだったのでした。

この南北朝期の奈良五郎左衛門以降、彼の子孫は、細川京兆家の重臣として、何度も様々な史料に登場することになります。

(次回へ)