いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。
私自身も最近の若い者は!と、憤る年代になった訳なんですが、
ひとつ気になるのは、絶対に謝らない人間が増えた、という事
なんです。最近のニュースを見ても、現行犯で逮捕されている
のに、犯人は容疑を否認しているのですね。絶対に罪を認めないのです。何があっても自分は正しいと、信じる人間が増えている
訳です。謝らないので当然喧嘩になります。最終的には殺人事件
(戦争)にまで至ります。でも殺人者当人は、自分は悪くないと信じているんです。でもね、結局世の中は、強い者が勝つのですよねえ。ならば、早く謝って置いた方が、得かも知れませんよ。
さて前回は、「讃州細川記」の「細川諸士之事」より、幕府管領
細川頼之の重臣の一人として、奈良氏の名前を発見しました。
しかしこの 「讃州細川記」、讃岐香川氏の末裔による江戸期の作でもあり、誇張や創作も多いため、その情報信頼性には、多少の
疑問符が付く史料なのでした。もちろん、讃岐奈良氏については、後の「南海通記(南海治乱記)」や「西讃府誌」にも記載が
ありますので、その存在自体については、疑う余地はないのですが、その始まりである室町初期(=南北朝期)から連続的に
細川京兆家の家臣であった点は、我々奈良姓の子孫にとっては、やはり重要な点なのです。何故なら、つい最近までの文献でも、
讃岐奈良氏は、15世紀の細川勝元の時代に細川氏の家臣(奈良太郎元安)になったのだ、との主張が展開されていたからなのです。
そのようなデマ!を覆す意味でも、決定的証拠として奈良氏についての同時代史料が、どうしても必要だったのですよ。
そんな中発見したのが、今回掲示の「東寺百合文書」なのです。「東寺百合文書」とは、平安時代から東寺に保管されて来た、
2万5千点にも及ぶ古文書類で、保管容器から東寺百合文書と呼ばれ、1997年には国宝に指定されている、第一級の歴史史料です。
で、驚くなかれ、こんな貴重な史料群の中に、奈良氏の名前があるのですよ。それが今回の掲示文書なんです。(今まで誰も研究
して来なかったようですけどね。)※まあもっとも、奈良氏なんて、世間では誰も知りませんからね。
それぞれの文書ごとに、函番号と、東大の史料編纂所による、文書名等の説明書きが付いています。※何せ国宝ですからね。
と言う訳で今回は、文書画像だけでは良く判りませんので、文書名「ヰ函/45/:摂津国守護細川頼元書下案」に、リンクを貼って
置きましたので、東寺百合文書WEBによる但し書きの方も、じっくりとご確認下さい。
まずは文書名からですが、文書名に案が付いているのは、断定を避ける学問的謙虚さを示すためですので、無くても構いません。
要は、摂津国守護である細川頼元が書き下した文書だ、ということです。右馬助とは官名で細川頼元のことです。で、細川頼元って
誰?、という話しになるんですが、細川頼元とは、前回登場した細川頼之の弟であり、養子でもある人物です。年齢は13歳離れて
います。1366年、兄頼之が将軍足利義満の元で管領に就任すると、その補佐役を務め、1374年には摂津国守護に就任しています。
またその後も、兄頼之と頼元は、セットで動いていることが知られている人物なんです。(同時代人)
頼之出家引退後の1391年には、室町幕府の管領にも就任しています。
なのでこの文書は、摂津守護時代の1376年3月17日の日付がある、細川頼元本人による、第一級の一次史料なのです。
その後1379年の康暦の政変で、兄頼之が失脚すると、頼元も摂津守護を解任され、頼之と一緒に讃岐宇多津に落ち延びています。
つまり前回の讃州細川記の記述にある通りならば、頼元も頼之と一緒に宇多津に到着し、その夜は奈良氏(奈良太郎?)の山城
(聖通寺城)に一泊している訳なんです。康暦の政変後、将軍義満と和解したのも宇多津の地ですから、細川頼之・頼元にとって
奈良氏の領地である宇多津が、いかに重要な地であったのかが、良く判るのです。(当時の讃岐国の守護所も、宇多津に置かれて
いたと言われています。) さて問題は、この文書の宛名です。但し書きをお読み下さい。 何と書いてありますか?
そうです奈良五郎左衛門入道殿ですね。本名は奈良五郎です。左衛門は官名、年老いて出家していたので入道です。もうお分かり
ですね、讃州細川記で細川頼之の家臣として書かれた奈良太郎とは、奈良五郎左衛門のことだったのです。更には、1362年7月の
白峰(高屋)合戦で、南朝方の前管領細川清氏の軍を、細川頼之と共に打ち破ったのは宇多津の兵、つまり奈良五郎左衛門だった
のですよ。ですから細川頼之より、讃岐宇多津の地を与えられ、聖通寺城を築城し、重臣となった訳なのです。
更に本名が奈良五郎だった事は、鎌倉期から奈良氏の当主は、代々奈良五郎を名乗っていた、ということも判るのです。玉井四郎
と同じですわね。なので武家奈良氏の初代とは、鎌倉初期奥州遠征時の初代奈良五郎であったと、考えられる訳なのです。
ところで、この文書の内容とは、一体何なのでしょうか? 但し書きを見てみましょう。全文翻訳はされていませんが、重要な
語句は書き出されています。またこの文書は基本的に、摂津守護細川頼元から、家臣である奈良五郎左衛門入道に対し発給された
下文ですから、東寺が永く保管して来たということは、東寺の権利に関する文書であることが推察出来るのです。さて但し書きを
見てみましょう。まず、差出人と宛名書きは良いとして、端裏書とは何でしょう?これ、東寺側のメモみたいなものです。つまり
「先の管領・守護の下文で、永和二年三月十七日に書かれた文書だ。」というメモですね。次の事書は重要です。「東寺領である
垂水荘の事だ。」とのことです。摂津垂水荘とは、摂津国豊島郡榎坂郷(地下鉄御堂筋線江坂駅周辺)にあった東寺領の荘園です。
書止の「之状如件」とは、「前記記載の通り」という意味の下文の定型文ですね。そして最も大事なのは、その他事項にある、
「寺家雑掌」・「下司職」で、寺家雑掌とは、東寺の荘官のこと、下司職とは、荘園の実務担当職員のことです。これでようやく
判りましたね、この文書は、摂津守護細川頼元が、奈良五郎左衛門入道に対し、摂津垂水荘の荘官として、下司職に任命した、
という、人事発令公文書なのです。なので東寺側は、後生大事に保管していた訳なのです。その意味、分かりますか?
文面としては、ちゃんと領主である東寺のために働きなさいよ、という体裁を取ってはいるものの、実態は、東寺領垂水荘を、
奈良五郎左衛門入道に、その支配権を与えた、という意味の文書なのですよ。なので、東寺にとって重要文書なのです。
こうして奈良五郎左衛門入道は、讃岐宇多津の領地だけでなく、摂津垂水荘の領地も得た訳なのです。そして少し怪しい奈良氏に
ついての記述と思われた、讃州細川記の奈良氏についての記述が、この東寺百合文書の発見により、案外本当のことだった、と考え
られる事態になったのでした。何せ一次史料ですから。奈良五郎左衛門の存在は、今や学問的に、誰も否定出来ない状況になったの
ですよ。三河に移住した鎌倉御家人、奈良氏は、細川頼之・頼元兄弟の重臣として、しっかり生き延びていたことが、この文書の
発見により、遂に明らかになったのでした。(次回へ)

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