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先日台北の繁華街で、中国国旗を掲げ、「台湾は中国のものだ!」と叫ぶ動画を撮影した日本人ユーチューバー2人が、国外退去に
なる事件がありました。中国のSNSに投稿し、炎上させ、閲覧数(広告費)を稼ぐ、商売目的ですね。最近このような炎上商売の
投稿が、大流行しています。火事と喧嘩は江戸の華は、現代のビジネスモデルにも生かされているようです。実は、政治や選挙でも
同じ状況でして、炎上扇動ビジネスは、今や選挙や政治でも大ブームです。踊っているネトウヨ連中が、バカなだけなんですがね。
匿名を隠れ蓑にして、ただ騒いでいるだけなんですが、彼らから見ると多分、政治に参加している高揚気分なのでしょうがねえ、、。
さて前回までは、三河国額田郡明大寺村に入植していた奈良氏が、南北朝期に足利尊氏を支持し、ご近所の細川氏(細川頼春)と
同盟を結び、その後被官となった背景について、細川頼春・頼之親子の事績を見て参りました。しかしこれまでのところ、奈良氏の
名前は、歴史史料にまったく登場していません。なので、奈良氏が細川氏の被官になったとの説は、本当なのでしょうかね?
と言う訳で今回は、細川氏の被官となっていた奈良氏が登場している最初の史料(掲示文書)を、まずご紹介させて頂きます。
この文書は、香川叢書第二巻に収められている「讃州細川記」の抜粋です。香川叢書とは、昭和12年から編纂が始まった、香川県に
残る古い古記録史料を後世に残すために、香川県史編纂事業としてまとめられた叢書です。そして「讃州細川記」とは、讃岐香川氏
の末裔である香川景助により、天和三年(1683年)に書かれた、とされています。まあ、細川京兆家の家臣であった香川氏の末裔
によって書かれた、香川氏寄りの視点から見た、讃岐国における細川頼之の事績が書かれた伝記文です。細川頼之が、讃岐国に渡っ
て来たところから始まり、最後は頼之が死んで後、讃岐国での細川氏の支配が終わる所までを描いています。無論、江戸期の作です
から、同時代史料ではないため、記述の正確性では劣るものの、家臣であった香川氏に伝わっていた頼之伝説であるので、太平記等
の記述には無い、独自の情報も多いのです。香川氏は元々、相模国(神奈川県)香川荘出自の下級鎌倉御家人で、承久の乱の後に、
新補地頭として安芸国八木(広島市)に領地を得て、一族で移住して来ています。細川頼之の家臣となった時期は、1356年に将軍
足利義詮に反乱を起こした南朝方の足利直冬軍追討のため、細川頼之軍が安芸を含む中国地方に遠征した際に、安芸の香川氏も、
頼之の家臣になったのだと、歴史上は考えられています。(なので奈良氏の方が、細川氏家臣としては古参なのですよ。)
で、掲示の「讃州細川記」ですが、奈良氏の名前が登場しています。まずは左側、「細川諸士之事」です。貞治年中(1362年~
1368年)に、細川頼之公は、重臣である香川氏、安冨氏、奈良氏、山田氏らを、讃岐国(香川県)に連れて来たのだそうです。
そしてそれぞれの氏族について紹介をしていますが、一番最初は当然自分の先祖、香川氏についてです。どこまで本当なのかは、
良く判りませんがね。香川氏に続いて登場しているのが奈良氏になりますが、僅かたった一行です。名前は奈良太郎だそうです。
奈良太郎は、宇多(鵜足)郡に領地を賜り、歌津(宇多津)の聖通寺山に城を築いたのだそうです。これまた大将の一人なのだ
そうです。(ご確認下さい。)詳細は、ほとんど何も書かれていません。香川景助、奈良氏の伝承以外、何も知らないからですね。
以降、安冨氏、香西氏、山田氏と、家臣の説明が続いています。この記述、順番をどう読むのか?、なんです。
まずこれらの讃岐家臣団は、貞治年中に讃岐に来た、とありますから、各氏ばらばらに讃岐に渡って来ていると思われます。
ところが歴史的史実として、細川頼之は、1362年の7月に宇多津の兵を率いて、白峰合戦(高屋合戦)で、南朝方に下った前管領、
細川清氏の軍を打ち破っている訳です。では宇多津の兵とは誰か?、なんですが、讃州細川記によれば、宇多津なんですから当然、
奈良氏=奈良太郎?になるハズなんです。つまりこの「讃州細川記」の記述と、白峰合戦(高屋合戦)の史実をつなぎ合わせれば、
奈良氏の名前が、自動的に出て来る訳なんです。
とすると、細川頼之の家臣として、最初に讃岐に来たのは、香川氏などではなく、奈良氏である、ということになるのですよ。
但し、この奈良氏の名前は、奈良太郎などという、訳の分からない名前ではありませんけどね。本当の名前は、後日登場します。
まあ香川氏の江戸期の子孫は、奈良氏の本名を既に忘却していたのですね。讃岐の奈良氏は、戦国中期に長曾我部元親によって、
滅ぼされてしまっているからです。(これも後に登場します。)
しかしこの讃岐奈良氏:奈良太郎?が、本当に古くからの細川頼之の重臣であった、という証拠は、何かないのでしょうかね?
と言う訳で登場するのが、右側掲示文書です。左と同じ「讃州細川記」なんですが、時代が異なっています。こちらは、1379年の
「康暦の政変」を、香川景助の視点?から描いた文書です。康暦の政変とは、将軍が足利義満で、幕府管領が細川頼之だった時代
の1379年、反頼之派の守護大名斯波義将、土岐氏、山名氏らが、兵を集めて将軍の御所を取り囲み、義満に頼之の罷免を迫った
クーデター事件です。これにより頼之は、義満から罷免され、頼之は自邸に火を掛け、出家し、一族共に四国へ落ち延びることに
なります。 この事件が脚色され、「讃州細川記」では、「頼之讒言之事」、続いて「頼之岡蟄居之事」として書かれています。
で、問題なのは脚色された部分ではありません。義満への讒言など、どうでも良い話しです。重要なのは、頼之一族が落ち延びた
先であり、四国のどこで、誰を頼って落ち延びたのか?、という点なのです。細川頼之一族にとって、最も安全であり、且つ、
安心出来る家臣?の元でなければなりません。「頼之岡蟄居之事」では、頼之はどこに落ち延びたと、書いてあるのでしょうかね?
最初の行に書いてありますね。讃岐の歌津(香川県宇多津町)の港に着いたのだそうですね。そうです、宇多津と言えば、1362年
7月に、坂出市の白峰城(高屋城)に立てこもる前管領細川清氏の軍を、宇多津の兵を率いて細川清氏を打ち破った、あの宇多津
なんです。この勝利により細川頼之は、四国全体の守護となり、室町幕府の管領にもなったのでした。つまり宇多津は、細川頼之
出世の起点の地なのです。なのでその後頼之は、讃岐の守護所を宇多津(宇多津町大門)に置いた、とも言われてもいます。
さて、宇多津に落ち延びた細川頼之一族は、到着したその夜、誰の元に身を寄せたと書いてあるのですかね?
そうです、奈良氏の山城=聖通寺城(宇多津町坂下)に身を寄せたのですね。奈良氏とは、先ほどの「細川諸士之事」によれば、
奈良太郎?のことです。つまり、奈良太郎?は、細川頼之から聖通寺城主として、重要な宇多津の地を任されていたのですよ。
このことから奈良氏について言えるのは、三河奈良氏は、細川頼之によって、讃岐奈良氏となった、ということなのです。
ようやく奈良氏の名前が登場しました。世間的には、ほとんど知られていない奈良氏なんですが、細川頼之にとっては、信頼の
篤い重要人物であったようです。でも本当なんですかねえ? まあ作者である香川景助が、ウソを書く必然性は、まるで無い部分
ではあるのですがね。しかし怪しい?「讃州細川記」の記述だけでは、イマイチ信用出来ない奈良氏の登場なんですが、細川氏の
重臣 奈良氏の、もっと決定的な証拠・史料などは、何か他にないのでしょうかね?(次回へ)



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