· 

奈良姓の歴史概説9:南北朝期 鎌倉幕府滅亡

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

物価高と貧富の格差拡大による政情不安は、何も鎌倉末期に限ったことではありません。

現在の日本でも、参院選で見られたように、既成政党への反乱が始まっています。昔は、

保守の自民に対する、革新の野党、という対立構図だったのが、現在は、全既成政党  VS

新右翼(トランプ派)みたいな構図に変わりつつあるように見えます。トランプ政権誕生

の影響ですよ。トランプ支持者って、既成常識何でも反対なんですけど、現在の新右翼って元々、90年代のインターネットの黎明期に、「2ちゃんねる」の辺りを生息地としていた

いわゆる、ネトウヨ(都市下層民)達だったんですけどねえ、、。皆さん覚えてますかね?

 

 さて前々回は、奈良氏が承久の乱後の恩賞により、三河国額田郡の鎌倉街道沿いの矢作

東宿(岡崎市明大寺町)に、新補地頭としての領地を得た、という見解を示し、更に前回

は、幡羅郡の奈良氏本家が、借金の果てに、本領である奈良村の土地を取られてしまった

ため、地頭(御家人)ではなくなり、近隣の村で農民に戻ったという、情けない説を展開

させて頂きました。これら事態により、武家奈良氏は、幡羅郡の本家が消滅し、三河の奈良氏と奥州鹿角の奈良氏が、それぞれ

別々に、生き残る形になってしまいました。まあ情けない話しではあるのですが、鎌倉後期になると、奈良氏に限らず、中小の

御家人の多くは、経済的に窮乏していたようです。多分御家人などといっても、所詮元々は農民(百姓)ですから、貨幣経済の

発展に、付いて行けなかったのだろうと思います。新興商人に騙されて、土地を取られ、御家人ではなくなってしまうのですよ。

この状況に危機感を持った9代執権北条貞時は、永仁五年(1297年)に「永仁の徳政令」を発布しました。御家人の借金を棒引き

として、借金のカタとなった土地の返還を命じるものでした。

結果、この徳政令により、御家人達は助かったのか?、と思いきや、逆に御家人は、益々困窮することになってしまったのですよ。

何故ならこの徳政令のお陰で、逆に誰も、御家人にお金を貸さなくなってしまったからです。(お金がないと、御家人も生きて行け

ない状況になっていたのです。)と言う訳で、各地の中小御家人の経済的窮乏は拡大し、御家人達の鎌倉幕府への不満は、高まって

行きました。ちなみに、土地を失い、御家人ではなくなった武士達は、一体どうなったのか?、なんですが、奈良氏本家のように、

農民に戻ったりは、しなかったようです。一応武器や武具を持っていましたからね。それで彼らは、悪党と呼ばれる存在になって

行ったようです。悪党が増えて行ったのですね。そしてこの状況こそが、後の鎌倉幕府滅亡の原因になって行ったのでした。

代表的な悪党の名前ですか? 楠木正成なんていう悪党もいましたねえ。このような社会不安が高まると、鎌倉期に鳴りを潜めて

いた京都の朝廷の方も、夢よもう一度!とばかりに、討幕への動きが活発化して行ったのでした。あの後醍醐天皇ですわね。

 

 で、今回の掲示写真は、昔の教科書写真で有名な、足利尊氏です。もっとも現在は足利尊氏像ではなく、単なる騎馬武者像と

いうことになっています。昔の源頼朝像も同様ですね、どちらの肖像も、現在は教科書から削除されています。でも我々世代に

とっては、なじみ深い足利尊氏像な訳です。ざんばら髪なので、新田義貞軍に敗れ、九州に落ち延びる姿を描いたのかな?と、

ずっと思っていました。この足利尊氏、門葉家(源氏系)足利氏の本家筋ですから、鎌倉幕府の中でも一番のお坊ちゃまでした。

北条得宗家からも一目置かれる存在だった訳です。育ちがいいので人が良く、他から担がれる存在でした。それもあってか、

ころころと考えを変える、奔放な性格でしたが、悪気は無かったようで、人から恨まれることはあまり無かったようです。まあ

典型的なお坊ちゃまだったのでしょうね。また、細々と生き残っていた三河の奈良氏にとっては、かつての上司、三河国守護:

足利義氏の子孫なのでした。1331年、父親足利貞氏が死去すると、尊氏が足利氏の家督を相続しますが、弱冠26歳でした。

で、同じ年の1331年、遂に後醍醐天皇が、討幕を掲げて笠置山で挙兵しました。朝廷だけの挙兵であれば、幕府の出先機関で

ある六波羅探題の対処で済んだのですが、楠木正成らも挙兵に加わったため、鎌倉幕府は、足利尊氏、新田義貞らの追討軍を

派遣します。承久の乱の再来ですね。しかし楠木正成はめっぽう強かったのですね。(まあこの辺りは太平記をお読み下さい。)

しかし結局、後醍醐天皇は、追討軍に捕らえられ、廃位、隠岐へ配流されてしまうのですが、尊氏は京都に駐留せず、さっさと

鎌倉に帰ってしまいます。既に何か思うところがあったのかも知れません。その後の1333年、楠木正成は千早城で再び蜂起し、

後醍醐も隠岐を脱出し、再び挙兵したため、尊氏は再び幕府軍として京へ派遣されます。ところが尊氏は、上洛途中の三河で、

家臣と相談し、突然謀反を起こす決意を固め、上洛し六波羅探題を攻め滅ぼしています。私は三河で鎌倉幕府への謀反を決意

したところがミソだと思っています。奈良氏を含む三河の御家人達が、一致して尊氏を支持したのですよ。なのでお坊ちゃま

足利尊氏は、討幕を決意することが出来たのです。

 

一方同時期の関東では、同族の新田義貞が蜂起し、鎌倉幕府を打ち滅ぼしてしまいます。足利尊氏にしても新田義貞にしても、

後醍醐天皇に従って討幕を決行したと言うよりは、それぞれ幕府や北条得宗家が気に入らず、御家人達の悲痛な声も多かった

ため、討幕を決意したのだと考えられます。その意味で、鎌倉幕府は早晩、滅びる運命にあったのだ、と言えるかも知れません。

1333年5月、遂に鎌倉幕府は滅亡しますが、世の中は足利尊氏によって統一された、という状況ではありません。逆に四分五裂の

状況でした。つまり足利尊氏方もいれば、新田義貞方もいて、更には、北条方の残党も多数残っていますし、後には、後醍醐天皇

方(南朝方)という新勢力も誕生して来ます。このあたりの統一を目指す各勢力の戦い・離合集散については、太平記の方でも

お読み下さいな。ただ、この四分五裂の状況が、しばらく続いたのが、南北朝期だったのでした。しかし我々の関心事としては、

残された下級御家人、三河の奈良氏や鹿角の奈良氏(大湯氏)が、この状況の中で、一体どのように動いたのか?、が問題なの

です。まずは足利尊氏と、三河の細川氏や奈良氏の動向から、見て行きましょうか。(次回へ)