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参院選が終わり、誰が首相をやるべきか?の議論が、かまびすしく行われています。民意に従い石破さんは辞任すべきだ、とか、
野党が勝ったのだから政権を渡せとか、いや勝ったのは国民民主党と参政党だけだ、とかワイワイ騒がしい状況です。でもどの
意見も、自分に都合の良い勝手な意見だと思いますよ。政権選挙という意味では、誰も勝っていないからです。例えば、勝った
と言っている国民と参政だけで、政権を担うことが出来るのですか? 民意は、バラバラを選択したのですよ。各党バラバラの
状況の中で、どうやって政権を担って行けるのか?が、国会議員には問われているのです。(各自バラバラの意見を、どうやって
まとめて行けるのか?、です。)もし、これが出来なければ日本も、中国やロシアのような政治体制に移るしか、ありますまい。
専制独裁政治ですね。今はアメリカも、実はその過渡期にありますけどね。
さて前回は、吾妻鏡1250年3月の閑院殿再建工事の寄進者名簿に、奈良氏の名前だけが無かったことから、承久の乱後の奈良氏
に、何があったのか?を、特に三河額田郡進出の推論をまとめてみましたが、奈良氏の名前が消えていた原因までには、たどり
着く事が出来ませんでした。仮に、奈良氏の一族が、幡羅郡奈良村を引き払って、一族揃って三河へ移住したのだと考えてみても、
鎌倉御家人である以上、閑院殿の寄進者名簿に名前の無い事実への説明は、着かないのでした。そこで今回は、その消えた原因
について、更なる推論により、独自の見解をまとめて行きたいと思います。
今回の掲示写真は、江戸後期に幕府により編纂された地誌「新編武蔵風土記稿」の、上奈良村と中奈良村の記述部分です。これら
の記述を読むと、昔、奈良氏という氏族がいたらしい事が書かれている以外は、奈良神社の記述も含め、全てが忘れ去られている
村であったことがよく判ります。まあその情報ソース自体も「成田氏系図」なんですけどね。つまり奈良村には、何の伝説・伝承も
伝えられていない、「歴史の無い村」として記述されているのです。※でも奈良神社は、平安期の延喜式神名帳に名前が載っている
程の官社なんですけどねえ、、、しかし何故こうなってしまったのか?、私は奈良氏本家の没落?と、関係があると考えています。
閑院殿再建工事の寄進者名簿から奈良氏の名前が消えた原因については、様々な解釈が可能だと思います。最も一般的な考え方
としては、武家奈良氏が断絶・滅亡したとする考え方です。しかし承久の乱後の1221年~1250年にかけては、大きな戦乱も起きて
いませんし、三河奈良氏も奥州鹿角奈良氏も、その後の歴史上、生き延びている訳なんです。つまり、幡羅郡奈良村の奈良氏本家
だけが、何故か衰退?している訳なのです。二代目奈良五郎が突然急死し、跡を継ぐ子供もいなかったのでしょうかね?
まあそのような理由も考えられますが、私は少し違った考えを持っています。それは、奈良氏本家が、幡羅郡奈良村の地頭職を
返上した?、と考えるからです。地頭でなくなれば、閑院殿再建工事の寄進をする必要もなくなります。どういう事なのか?、順を
追って説明します。まずは二代目奈良五郎の先代、奈良左近将監の時代、1195年3月の東大寺落慶パレードに、成田四家の中では
先代奈良五郎の一族郎党だけが、参列している事実です。奈良氏だけが隋兵に選ばれた?、という見方もありますが、私は敢えて
希望した、と見ています。頼朝も一家揃って上洛し、3ヶ月も滞在したことを考えると、物見遊山旅行的側面が大きい上洛でした。
更にパレード参列の隋兵(御家人)達は、一族郎党を引き連れてパレードに参列しています。彼らの上洛・滞在費用を、全て鎌倉
幕府が支払ったとは到底考えられないのです。(鎌倉番役や京都大番役の任務ですら、自前ですからね。)なので、同じく軍功を
挙げていたにも拘わらず、幡羅郡ご近所の、成田氏や別府氏、玉井氏らは、東大寺パレードには参列しなかったのです。
更に先代奈良五郎は、かなり高額だったと思われる「左近将監」という官職名まで、朝廷から得ている訳です。つまり奈良氏は、
先代奈良五郎の時代に、ものすごい浪費・散財をしていた、と考えられるのです。借金も相当あったハズ?だと思われるのです。
しかし先代奈良五郎は、借金など新たに恩賞を得ればすぐに返済可能だ、と思っていました。実際承久の乱では、三河の地に恩賞
を得ています。ところがです、承久の乱後、二代目奈良五郎の代になると、平和な世になり戦がなくなります。当然新たな恩賞も
ありません。更には貨幣経済の発展により、世の中はコメの経済から銭の経済に変化していました。特に京都ではその傾向が顕著
でした。どういうことなのか?、都では、コメではモノが買えなくなって来たのですよ。銭(宋銭)が必要になったのです。
このことが奈良氏と何の関係があると言うのでしょうか? 実は大有りなのです。奈良村の属する幡羅郡は、関東有数の米どころ
です。そして幡羅郡は古くからの国衙皇室領でした。税は当然、コメで納めていました。ところが皇室でも、コメではなく、銭が
必要になって来たため、代銭納(銭納付)を命じるようになって来たのです。これが東国の地頭達にとっては、大問題でした。
西国では既に代銭納は普及していました。運搬・保管も楽だからです。ところが当時の東国では、まだ貨幣経済は十分に普及して
いませんでした。コメの両替商(コメ問屋)が無かったからです。二代目奈良五郎は、京都での借金の返済や納税のため、銭が
必要となり、遂には奈良村の土地の権利は、借金取りに取られてしまい、結果、地頭(御家人)の身分ではなくなってしまった、
というのが、私の見立てなんです。ちょっとびっくりですかね? 実際私の先祖の代では、ちょくちょく起きていたのですよ。
ですから奈良氏は、御家人名簿から消えたので、閑院殿の寄進者名簿にも名前が無かったのだと、考える訳です。でも何故、
そのように考えるのか?、なんですが、実は奈良村からは奈良姓がいなくなったのですが、近隣の村々(加須市や久喜市)には、
現在でも多数の奈良姓の人々が、今も現存しているのです。この事実をどう考えるのか?、なんです。つまり奈良氏本家の一族は、
奈良村の地頭(御家人)一族ではなくなったけれど、近隣で、元々の農民に戻って行っただけの事だった、と言うことなのです。
まあ、当主だった奈良五郎だけは武士として、家名を残すために三河に移住したかも、という可能性はあると思います。
ですから奈良氏本家は、絶滅した訳ではないのですよ。しかし土地を取られた事によって、奈良村から奈良姓を名乗る武士が消え、
武家奈良氏の本領でもなくなったため、奈良村での武家奈良氏の記憶は、完全に消え去ってしまった訳なのです。(まあ少し恥ずか
しい記憶ですからね。)しかしその後も武家奈良氏の方は、三河と奥州鹿角の地で、細々と鎌倉期を過ごしたのでした。奈良氏に
転機が訪れるのは、鎌倉幕府の滅亡時なのですが、本家が衰退してしまったので、分家の三河や鹿角の奈良氏は、細々と過ごして
います。しかしそれは、三河国額田郡細川村に入植した細川氏(元矢田氏)も、実は同様だったのでした。蒙古襲来以降の当時の
下級御家人達は、実は皆困窮していたのです。奈良村の奈良氏に起きていたことは、どこの中小御家人達にも起きていたのです。
そして彼らも、奈良氏本家と同様に、借金の果てに土地を取られ、御家人でなくなる者達が続出していたのです。その代わりに、
御家人ではない武士団、「悪党」が、各地に多数誕生していたのです。代表的な悪党の名前ですか?、楠木正成とか、ですかね。
そして実は、この状況こそが、鎌倉幕府の崩壊に繋がって行ったのですよ。(次回へ)



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