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参院選挙の結果は、大体予想通りの結果になりました。自公与党の過半数割れは織り込み済みとして、立民や維新も、ぱっとしませんでした。
投票率上がっているんですけどね。ネトウヨ的表現で言えば、オールド
政党は全滅で、浮動票の大部分は国民と参政に流れたようです。まあ、
多極化ですよね。今後も、どこか1つにまとまる事は無いでしょうね。
また、国民と参政の天下も一時的でしょうね、何故ならあれほど注目を
集めた再生やN党が、1議席も取れなかったからです。時は移りますよ。
さて前回は、天下分け目の承久の乱から29年後の鎌倉中期、1250年
(建長二年)3月1日の吾妻鏡の記述、京の閑院殿再建工事の寄進者名簿
から、我らが奈良氏の行方が分らなくなってしまっていた状況を見て参りました。奈良氏以外の武蔵国幡羅郡出自の下級御家人達は、
皆健在であったにもかかわらず、奈良氏の名前だけが消えていたのでした。一体、奈良氏に何が起きたのでしょうか? だって、
29年前の承久の乱での軍功者名簿には、二代目奈良五郎を筆頭として、奈良兵衛尉、奈良左近将監と、3人も名前が登場していました
からね、恩賞も沢山あったハズなのです。それが29年後とは言え、忽然と消え失せるとは、信じられない事なのです。
しかし承久の乱以降の吾妻鏡を読み進めても、下級御家人である奈良氏についての記述など、あるハズもありません。いわんや吾妻鏡
の記述に載っていなければ、その他の歴史史料に、名もない奈良氏の名前が登場する事など、あり得ないことなのですよ。
と言う訳で、奈良氏の歴史・由来追跡は、八方塞がりの状況になってしまいました。
そこで今回は、次に奈良氏が歴史上に再登場する南北朝期までの間、鎌倉中期~鎌倉幕府滅亡までを、私の推論によって、奈良氏
のその後の動向を再構築してみたいと思います。歴史的確証はありませんが、状況証拠的には、ある程度の説得力はあると思います。
で、今回の掲示写真は、現在の地図です。住所は愛知県岡崎市明大寺町奈良井、という場所です。この場所と奈良氏に、どのような
関係があるのでしょうかね? それでは独自推論を進めて行きましょう。
まずは、1221年の承久の乱後からです。吾妻鏡では、翌年1222年4月26日に、没収した上皇方の荘園が、多くの御家人達への恩賞
として配分されたことが書かれています。いわゆる新補地頭です。ただ、御家人達には既に、先祖代々の本領がありました。例えば
奈良氏の場合は、幡羅郡奈良村です。本領は家長が相続しました。ですから新たな領地の新補地頭には、次男・三男の分家が、現地
へと派遣されました。この状況を踏まえて、まずは鎌倉幕府(源氏)の門葉(親戚筋)身分であった、足利氏の動向を見て行きます。
頼朝時代、足利氏二代義兼は、北条政子の妹を嫁としたことから、頼朝とは義兄弟の関係になっていました。つまり普通の御家人達
よりは少し優遇される身分だった訳です。そしてこの義兼には、腹違いの兄弟源義清(矢田判官代)がいましたが、彼は木曽義仲方
に与していたため、彼の子孫は御家人となっても優遇されることはありませんでした。そんな中の承久の乱後、足利義兼の子、三代
足利義氏は、恩賞として三河国守護に任ぜられ、鎌倉街道沿いの三河国額田郡矢作東宿付近(愛知県岡崎市明大寺町)に守護所を
置いたとされています。(明大寺古城)しかし足利義氏は、三河国守護だけではなく、鎌倉幕府の重臣でもあり、陸奥守、武蔵守等
にも任じられており、更には本領である下野国足利郷(栃木県足利市)もあったため、三河国に常駐することはありませんでした。
そこで元々、九条家領であった額田郡を、実質統治したのは、鎌倉からそれぞれ派遣されて来た、新補地頭達であった訳です。
そんな額田郡に派遣されて来た新補地頭の中に、奈良氏もいたハズだと、私は考えます。承久の乱で軍功を挙げた奈良五郎でしょう
かね? いえ私は、二代目奈良五郎が三河へ移ったとは考えません。彼には本領である幡羅郡奈良村があるからです。新補地頭
として三河国へ派遣されたのは、分家である奈良兵衛尉(奈良彌五郎)の子孫であっただろうと考えるのです。彼も軍功を挙げて
いるからです。何せ奈良氏は、承久の乱での軍功者名簿に、奈良五郎、奈良兵衛尉、奈良左近将監と、3人も載っているのですから、
当然それなりの恩賞を得たハズなのです。それなりとは、新補地頭領地の場所です。そうです、三河守護所のすぐそばの地頭職なん
です。私は奈良氏が、額田郡矢作東宿の明大寺村(妙大寺村)※現愛知県岡崎市明大寺町の新補地頭に任ぜられた、と考えています。
そして奈良氏の居館は、岡崎市明大寺町奈良井にあったと考えます。(掲示地図参照)奈良氏の井戸があったことから、奈良井という
小名地名が残った訳です。この地は、三河守護足利義氏が守護所を置いたぐらいですから、京と鎌倉を結ぶ鎌倉街道の要衝でした。
更には、大河矢作川の東岸に当たるため、京から攻め上って来る敵を防ぐ、関所の地にもなっていたのでした。鎌倉幕府にとっても、
重要拠点であった訳です。矢作東宿という要地の地頭に任じられることは、奈良氏が大きな恩賞を得た、と言える訳なのです。
また、三河奈良氏にとっての一番の上役は、無論鎌倉幕府(=北条得宗家)なのですが、現地の直属上司である三河国守護足利義氏
とも、当然、それなりの繋がり・信頼関係が、出来て行ったのだろうと思われるのです。さてこの推論、いかがでしょうかね?
そんな中、もう一人の人物が、承久の乱後の新補地頭として額田郡に入植して来ます。承久の乱の軍功者名簿での彼の名前は、
矢田八郎と言います。彼の祖父の名は、源義清(矢田判官代)と言いました。父親の名は、矢田(広沢)義実と言います。
そうです、二代足利義兼の腹違いの兄弟の子供です。でも確か、木曽義仲に味方したため、頼朝の鎌倉幕府では、冷遇されていた
のですよね。その子供が矢田八郎です。承久の乱で軍功を挙げ、三河国守護足利義氏の親類でもあったため、他の一族と共に、
額田郡の新補地頭として赴任して来たのでした。矢田(広沢)氏は、本領が定まっていなかったからです。(前回、1250年3月の
吾妻鏡、閑院殿再建工事の寄進者名簿では、一本細川宮内丞で登場していますね。)そうです、額田郡細川村(現岡崎市細川町)
に入植し、初めて細川を名乗ったのが、細川宮内丞だった訳です。後の細川氏(細川京兆家)の祖となる人物です。
しかしこの頃(承久の乱後)の奈良氏と細川氏の関係は、近所の同僚御家人同士、という関係でしかありませんでした。
もちろんまだ、主従関係ではありません。むしろ立場的には、三河奈良氏の方が若干優遇されていたような?、、、、
しかしまあ、三河へ移住した奈良氏の方は良いとして、29年後、幡羅郡奈良村の本家、二代目奈良五郎一族の方は、一体どう
なってしまったのでしょうかねえ? 寄進者名簿から、奈良氏の名前だけが、何故か消えていた訳なのですが、、、、(次回へ)

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