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奈良姓の歴史概説7:鎌倉中期、承久の乱以降。

 いつもこのブログをご覧頂き、誠に有難うございます。

 明日はいよいよ、参院議員選挙の投票日です。まあ誰に投票しようが、劇的に大きく、今の政治が変わることはないと思われ

ます。私はコレ、良いことだと思っています。政治は漸進的に変わるべきだ、と考えるからです。なので泡沫候補は当選しないん

ですよ。ところが米国国民は、熱狂に駆られて、泡沫候補を当選させてしまった訳です。結果は見ての通り、世界は大混乱に陥

っていますよね。この混乱の尻ぬぐいは、選んでしまった米国国民が負わなければなりません。日本国民も、投票を間違えると、

米国のような結果になることを、肝に銘じるべきでしょうね。後から気づいても遅いんですよ、他山の石とすべきです。外国人の

排斥を叫んでいる政党がありますが、その政党と支持者達は、老人の介護をしたり、ごみの収集をしたり、建設現場や解体現場、

清掃現場で働いたことあるんですかね? もしやった事無いのならば、排斥を叫ぶ以上、まずあなた達がやるべきですわね。

 

 さて前回は1221年6月の、天下分け目の承久の乱の最大の合戦であった宇治川合戦での戦功者名簿から、頼朝時代のパレード

参列者名簿と比較しながら、奈良氏や幡羅郡出自の御家人達のその後の状況を探って参りました。承久の乱でも奈良氏一族は、

奈良左近将監(先代奈良五郎)、奈良兵衛尉(奈良彌五郎)、そして二代目奈良五郎と、二世代それぞれが活躍し、しっかりと

生き残っていたことが明らかになったのでした。

更には、軍功者名簿に名前が載ったということは、それぞれに対して、恩賞の沙汰があったことを示しています。承久の乱後の

沙汰としては、後鳥羽上皇方の皇族、貴族の領地(荘園)約3000箇所が没収となり、軍功のあった御家人達へ、新補地頭として

配分されたことが知られています。当然、奈良氏一族も、その恩恵に浴したハズだ、と思われるのですが、、、

 

 で今回は、承久の乱から更に29年後、1250年(建長二年)3月1日の吾妻鏡の記述になります。かなり膨大な記述ですね、実は

コレ、閑院殿という天皇の別荘の再建工事の費用分担寄付名簿(奉加帳)なんです。かなり膨大な名簿なんですが、承久の乱の

軍功者名簿から29年後の、各御家人の状況を、推測することが出来るのです。

まずは高額の寄進をする有力御家人からです。左端一番目の写真、右ページ右から3行目に、仁壽殿の再建寄進者として、修理権

太夫跡という記載があります。これ誰のことか判りますか? コレ、北条時房(二代執権北条義時の弟)のことなんです。NHKの

大河ドラマでは、瀬戸康史さんが演じた役ですわね。で、問題なのは、官名の後に付いている「跡」という字なんです。跡とは、

本人が死んでしまっていて、その家を相続した者(跡目)という意味です。承久の乱から29年も経っていますから、北条政子も、

北条義時も、北条時房も、みんな死んでしまっている訳です。なので「跡」を付けているのです。しかし鎌倉幕府は、北条時房の

跡目の名前を知らないのでしょうかね?、そんなことはありません。では何故本名ではなく、「跡」を付けているのでしょうかね?

有力御家人については当然、後継者の名前は知っていたハズです。でも敢えて「跡」を付けているのです。何故なんでしょうか?

実はこの寄進者名簿、京都の朝廷に提出される名簿だからなんです。つまり、承久の乱の際の人物名(官名)ならば知っているが、

29年後の御家人名は知らないであろう、と考えての「跡」だったのです。その意味では我々も、承久の乱の軍功者名簿と照らし

合わせるためには、便利な配慮だと思われます。また現生存者についても、官名を書いておけば、多分判るだろう、との思いも

あると考えられます。 と言う訳で、この寄進者名簿は、29年後なもので、「跡」だらけの名簿になっている訳なのです。

 

 さて我々が良く知る、武蔵国幡羅郡(熊谷市)出自の御家人の名としては、最初に登場しているのは、「二條面西洞院東二十本

で、二本成田入道跡と玉井左衛門跡」(6番目の写真)が登場しています。成田氏と玉井氏は、29年後も下級御家人として、何とか

生き延びていたことが判ります。ちなみに二條面西洞院東とは、二条通りに面した西洞院通りと交わる東側という意味で、二十本

とかあるのは、築地塀のことです。また成田入道とは、成田五郎か成田藤次のことで、玉井左衛門とは玉井小四郎のことだろうと、

考えます。 続いて「同、北十六本、一本別府左衛門」(7番目の写真)が登場しています。別府左衛門とは、別府次郎太郎のこと

だろうと考えます。また「跡」が付いていないことから、別府左衛門はまだ生きていることが判ります。(一本だけと言うのは、

少ししょぼいですけどね。)まあそれでもこれらの記述により、幡羅郡出自の下級御家人、成田氏、玉井氏、別府氏は、それぞれ

皆健在であったことが判るのです。さてそれでは、承久の乱で、奈良五郎、奈良兵衛尉、奈良左近将監(先代奈良五郎)を輩出し、

その後の東大寺落慶パレードにも唯一選ばれた我らが奈良氏は、一体どうなったのでしょうか? 実はこの寄進者名簿をどこまで

辿っても、奈良氏の名前を発見することは出来ないのですよ。承久の乱後の恩賞も、間違いなくあったハズなんですけどねえ、、、、

皆さんも確認してみて下さいませ。 何と奈良氏だけが、忽然と消えてしまったのです。 承久の乱後の奈良氏に、一体何があった

のでしょうか? もっとも、何があったのか?、無名の奈良氏なので、別の歴史史料も無く、本当は誰にも判らないのですが、、、。

 

 ただこの名簿の中で、一人だけ、注目して頂きたい名前があるのです。「一本 細川宮内丞」(10番目の写真)という人物です。

たった一本の寄進ですから、下級御家人ですね。承久の乱の軍功者名簿では、14日の宇治川合戦で手負いの人々の中に、矢田八郎

という名前があるのですが、私は矢田八郎が、この細川宮内丞であると考えています。この人物こそが、後の奈良氏と、大きな

つながりが、出て来るハズ、ではあるのですが、、、、(次回へ)