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奈良姓の歴史概説6:承久の乱での幡羅郡出自の武士達は、誰なのか?

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 日本も含め、世界中がトランプに振り回されていますね。過敏に反応すればするほど、主演者トランプの思うツボですわねえ。

私は、無視すれば良いと思いますよ。世界中の皆がトランプを無視することによって、トランプとのチキンレースに勝つことが

出来ます。日本が報復関税を実施するにしても、大々的に宣言などする必要はないのです。粛々と実施すればよいのです。政治が

ショーになればなるほど、トランプは元気一杯になります。政治ショーを止めさせるには、トランプを無視するのが一番なのです。

世界中が誰もトランプとアメリカに注目しなくなれば、トランプは嫌気が差して、大統領職を放り投げると思われますがねえ。

 

 さて前回は、1221年に発生した天下分け目の承久の乱の、6月18日付の宇治川合戦での戦功者名簿から、奈良氏ら武蔵国幡羅郡

出自の下級御家人達の名前を見つけ出したのでした。尼将軍北条政子が、32年前の奥州合戦での武蔵武士達の強さが忘れられず、

当時の彼らの参陣を要請したから、なのでした。そこで、1190年11月の頼朝上洛凱旋パレードの行列名簿(=奥州合戦の軍功者)

や、1195年3月の東大寺落慶パレードの行列者名簿と、名前を比較することによって、各御家人一族のその後の状況を推察して

みたいと思います。新旧で、名前が変化している点がミソなんです。

上洛凱旋パレードに参列していた幡羅郡武士は、中条平六、筥田太郎、成田七郎、別府太郎、奈良五郎、奈良彌五郎、岡部六野太、

滝瀬三郎、玉井太郎、玉井四郎、岡部小三郎、あたりでした。また幡羅郡武士ではありませんが、安保五郎の名前も見えました。

東大寺パレードに参列していた幡羅郡武士は、岡部小三郎、奈良五郎のみで、安保氏は、安保五郎、安保六郎の名前が見えます。

そして上記名前と、今回宇治川合戦時の、奈良五郎、玉井四郎、成田五郎、成田藤次、(戦死した成田兵衛尉、成田五郎太郎、)

奈良兵衛尉、別府次郎太郎、奈良左近将監玉井小四郎、(戦死した玉井兵衛太郎、)と、安保氏の安保右馬允、(戦死した安保

刑部丞、安保四郎、安保左衛門次郎、安保八郎、)の名前を、比較・推定してみたいと思います。

 

まずは奈良五郎からです。今回の軍功者名簿で注目すべきは、奈良五郎、奈良兵衛尉、奈良左近将監と3人の奈良氏が登場している

点です。そして奈良兵衛尉と奈良左近将監には官職名(百官名)が付いている点なんです。つまりこの2人は、過去に上洛を経験

していて、京都土産として朝廷より、官職名を得ていることを表しているのです。まあ多分、奈良左近将監の方が朝廷へ沢山お金

払ったのでしょうね。なので左近将監という、ちょいと良い官名を貰っている訳です。(無論当時の任官には、鎌倉幕府(頼朝)

の許可が必要でしたがね。しかしこの許可は次第に有名無実化し、その後は勝手に官名を名乗る、百官名になって行ったのです。)

まあやはり官職名は、当時の武士の京都上洛土産なんです。なので東国武士達は皆、官職名を、有難く名乗る訳なんです。

そこで考えられるのは、今回の奈良五郎には官名が無い事から、頼朝上洛時の奈良五郎とは、承久の乱時の奈良左近将監であろう

と、推測出来るのです。親子ですわね。 では今回の奈良兵衛尉は誰か?と言うと、頼朝上洛時の、奈良彌五郎であろうと考えられ

るのです。(兵衛尉は普通の官名なので、多分奈良五郎家の方が、金持ちだったのかな?)と言う訳で、今回の奈良五郎とは、奈良

左近将監(前奈良五郎)の嫡子なのであろうと、推測が出来るのです。

では今回の玉井四郎は誰か?、なんですが、私は前回も申し上げた通り、32年前の玉井四郎その人だと思っています。奈良左近将監

同様に、老体に鞭打って参陣した訳です。では今回の玉井小四郎は誰なのか?、なのですが、私は官名が無いことから、玉井四郎

子か孫であろうと考えます。では頼朝上洛パレードの参列者であった玉井太郎は誰なのか?、なんですが、やはり玉井四郎の子

考えます。つまり玉井小四郎と玉井太郎は、年の離れた兄弟(腹違い?)かも知れないと考えるのです。で今回の宇治川合戦に

、玉井太郎は参戦していません。代わりに子の玉井兵衛太郎が参戦し、戦死している訳なのです。即ち、玉井太郎は、玉井兵衛尉に

なっていたと、考えられるなのです。(一度上洛していますからね。)しかし年老いた玉井四郎は、官職名を得ていません。何故

なのか? そりゃそうです、その昔、後白河院から、押領の罪で院宣を受けているからです。彼の官名は、無くて当然なんです。

この考えと同様に、成田五郎、成田藤次とは、官職名がありませんので、頼朝上洛パレード時の成田七郎助綱の子供達で、今回

戦死した成田兵衛尉こそが、成田七郎助綱本人であり、同様に戦死した成田五郎太郎とは、成田五郎の長男であろう、と考えられ

る訳なのです。そして成田五郎とは、成田七郎助綱の子供なのでしょう。

更に、別府次郎太郎とは、前回の頼朝上洛パレードの別府太郎の弟(次郎)の子(甥)なのであろうと考えられるのです。(多分)

さてどうですか?、このように考えると、奈良氏や成田四家?と言われる幡羅郡出自の各氏族の、その後の状況も、良く理解出来

のです。

 

 ついでに、鎌倉末期に成田氏を引き継いだ(八坂神社文書)とされる、安保氏の名前の状況も見てみましょうか。

源平合戦~奥州合戦での軍功により、1190年11月の頼朝上洛凱旋パレードに参列した安保氏は、安保五郎のみで、東大寺パレード

ようやく、安保五郎、安保六郎が揃って参列しています。

そして今回の宇治川合戦名簿ですが、官職名のある者としては、安保右馬允と戦死した安保刑部丞がいます。右馬允と刑部丞では、

刑部丞の方が官位は上ですから、安保五郎が安保刑部丞で、尼将軍北条政子が強く参戦を要請した安保實光なのだろうと、推察が

出来るのです。従って生き残った安保右馬允とは、安保六郎である、と言うことになります。

この安保右馬允の子孫が、鎌倉末期に成田氏を引き継ぐことになる訳です。

まあこうして戦功を挙げた各氏族は、承久の乱後に恩賞として、上皇方の没官領を新補地頭として獲得して行くことになるのです。

で、この戦功者名簿の中で注目して欲しい人物では、負傷した人々の中で登場している、「矢田八郎」という人物がいるのですが、、、

さて、その後の奈良氏の行方などは、いかに?(次回へ)