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奈良姓の歴史概説6:公武対立の平和から、大激動で武士の世へ。

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 さて前回は、吾妻鏡が欠落している、1196年(建久七年)~1199年(建久十年)2月までの空白の3年間の状勢について、私見を

交えながら、持論を展開させて頂きました。要は頼朝末期から、将軍家と東国御家人達の間には、亀裂が入っていたという事です。

朝廷を超える絶対者、平清盛になりたかった頼朝と、将軍の権力集中を嫌う東国御家人達との間のすきま風ですね。頼朝の死後、

頼家~実朝の時代に入っても、その亀裂は、更に大きくなっていました。なので頼家、実朝は、暗殺されてしまった訳なのです。

ですから頼家~実朝の時代の吾妻鏡の記述は、おかしな怪しい記述が多くなります。そりゃそうです、だって吾妻鏡の編纂者は、

その後の幕府権力を掌握した北条氏なのですからね。特に頼家時代の記述は信用できません。更には奈良氏や幡羅郡の下級御家人

も全然登場していないので、この間の吾妻鏡は飛ばして、前々回掲示の1195年から26年後の、1221年6月の掲示になります。

奈良氏ら、幡羅郡出自の武蔵武士達が最後に戦った奥州合戦は1189年でしたから、あれから32年も後の記述になります。従って、

源平合戦から奥州合戦にかけて奮戦し、1190年11月の頼朝上洛凱旋パレードに参列した、武蔵国幡羅郡出自の当時の武士達は、

既に60歳近くになり、皆老人になっていたハズなんです。そんな中、今回の戦乱、天下分け目の承久の乱が勃発します。

 

 承久の乱とは、朝廷の復権を目指して後鳥羽上皇らの皇族と反鎌倉派の公家達が蜂起し、二代執権北条義時の追討を宣旨した

ものの、鎌倉軍に京都を攻められ敗北した戦乱です。この乱により、鎌倉初期の鎌倉幕府と朝廷による二重支配体制は解消され、

遂に武士の世が出現することになりました。しかし乱の勃発直後は、後鳥羽上皇による義時追討の院宣により、鎌倉の御家人達も

動揺したため、尼将軍北条政子が御家人達を前に大演説を打ち、感銘を受けた御家人達は一致団結して、朝廷と戦う決意を固めた、

との物語り(承久記)ですが、まあ実際には演説ではなく、文書であったようです(吾妻鏡)が。まああくまでも伝説なのです。

で、今回掲示の吾妻鏡は、この承久の乱での最大の攻防戦であった、宇治川合戦での恩賞のための、戦功者名簿の記述なんです。

実はこの中に、何人もの武蔵国幡羅郡出自の懐かしい名前が、再び登場している訳なのです。早速掲示写真を見て行きましょう。

 

 まずは左端写真の記述からです。「6月14日の宇治川合戦で敵を討ち取った人々」として、御家人の名前と討ち取った敵の人数が

書かれています。先頭から4番目に、奈良五郎(1人)の記載があるではありませんか!奈良五郎は1人の敵(官軍)を討ち取った、

という記録です。鎌倉幕府に提出するための軍功記録ですから、ウソを書く訳はありません。敵を討ち取った人数は、ほとんどが

1人か2人ですので、この時代の合戦は、集団戦ではなく、1対1の一騎打ち形式であったと推測出来ます。ですから、天下分け目

の戦いとされる承久の乱でも、双方の戦死者はさほど多くはありません。なので吾妻鏡の5月25日付で書かれている鎌倉軍19万騎、

5月28日付の官軍1万9千326騎の、どちらの数字もウソ(誇張)だろうと思われます。まあ10分の1以下と考えた方が良いと思われ

ます。何故なら、今回掲示の戦功者名簿は、今回の戦い最大の合戦だった、6月13日~14日の宇治川合戦(大将北条泰時)の軍功

名簿なのですが、後段に記されている戦死者の人数は、99人だけなのです。従軍した人数も8百余騎とありますから、官軍の方は

もっと少なかったのだろうと思われます。つまり、当時の大戦と言っても、この程度の規模の戦いであった訳なのです。ですから

逆に言えば、この程度の規模だからこそ、詳細な個人ごとの軍功記録を作成することが出来たのだ、とも言えそうです。

 

 さて最初の奈良五郎登場に続いて、誰が登場しているのでしょうか? 三番目(真ん中)の掲示写真を良くご覧下さい。まずは

1行目に、安東兵衛尉の手、伊予の玉井四郎(1人)とあるではありませんか! 私はこの人物、後白河法皇から院宣で押領の追求

を受け、頼朝から鎌倉追放処分を受けた、あの玉井四郎だと思いますよ。何故なら同じく追放処分を受けていた安東兵衛尉(忠家)

の手の者になっているからです。安東兵衛尉(忠家)は、5月25日の記述で、北条泰時軍への合流が許されています。ただ、最後の

奥州合戦から32年も経って世代交代もしているので、新編武蔵風土記稿の記述などでも、伊予の玉井四郎は、別人だろうと言って

いるのです。しかし私は同一人物だと思いますよ。何故なら5月19日の記述で、尼将軍北条政子は、「安保實光など、(奥州合戦で

活躍した)武蔵国御家人の集結を待って、速やかに京へ出陣せよ。」と命じ、各国に御家人招集命令書を出しているからです。

60過ぎの老婆となっていた北条政子は、32年前の奥州合戦での武蔵武士達の活躍を頼朝から聞き、まだよく覚えていた訳なのです。

つまり奥州合戦で電撃勝利した当時の武蔵武士達を招集した訳なのです。ですから年老いた安保實光も参戦し、宇治川渡河で溺死

している訳なんです。当然、伊予で余生を過ごしていた玉井四郎にも、尼将軍の要請は届いていたのです。そこで同じ鎌倉追放の

処分を受けていた 安東兵衛尉(忠家)に頼み込み、手の者に加えてもらった訳なのです。しかし老体の身で、敵1人を討ち取る

とは、やはり大したものですよね。さすが玉井四郎資重なのです。玉井氏はこれにより、代々玉井四郎を名乗ることになります。

(実は奈良氏の奈良五郎も、同様ですよ。後に判ります。)

そして続いて4行目からは、幡羅郡(熊谷市)出自の御家人達が連続で登場しています。成田五郎(1人)、(同)成田藤次(1人)、

奈良兵衛尉(1人法師)、別府次郎太郎(1人)、です。前の玉井氏も含めて、成田四家勢揃いですわね。この吾妻鏡の記述のおかげ

で、後代の成田四家伝説は、広く信じられることになった訳なんですが、軍功者名簿の登場人物の方は、まだまだ更に続きます。

四番目の掲示写真の左頁、6月14日の宇治川合戦で傷を負った人々の中には、奈良左近将監(渡河時負傷)の名前が発見出来ます。

傷を負っても、軍功の対象になったことが判ります。最後の方の行には、玉井小四郎の名前も見えますね。(玉井四郎の孫かな?)

そして最後の掲示写真、6月14日の宇治川合戦で戦死した人々の中には、成田兵衛尉、同成田五郎太郎、玉井兵衛太郎、の名前が

あり、更には幡羅郡出自ではありませんが、尼将軍北条政子が名前まで出して招集した、安保刑部丞(安保實光)の名前まである

のでした。この宇治川合戦の渡河作戦時に、安保氏一族は何人も死んでいますが、甲冑が重くて溺れ死んだ可能性があります。

(※6月14日の記述より。)なので、成田兵衛尉、同成田五郎太郎、玉井兵衛太郎等も、討たれたのではなく、溺れ死んだ可能性が

あります。奈良左近将監(渡河時負傷)は、よく傷を負っただけで助かったものです。 ところで、この奈良左近将監とは、一体

誰のことなのでしょうかね? 更には、今回の成田四家の登場人物と、頼朝上洛パレード時の参加者名との関係とは?(次回へ)