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奈良姓の歴史概説5:鎌倉初期、空白の3年間から対立の平和期へ。

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

イスラエルがイランを先制攻撃し、イスラエルが優勢と見ると、トランプもイラン攻撃に

参戦しましたが、ロシアと中国は、トランプの参戦を非難しています。この状況をどう見る

のか?、なんです。実はすごく難しいんです。何故なら、イスラエルもイランもトランプも

ロシアも中国も、全部嫌いだからです。全てが嫌いな場合は、私一体、どうすれば良いので

しょうかね? 多分、思考停止!、ですかね?

 

 さて前回は、1195年頼朝の再上洛で、3月4日の東大寺再建落慶法要パレードの記述から、

奈良五郎の名前を見つけたのでした。吾妻鏡では、幡羅郡出自の武士が多数登場した、第一

回目の上洛凱旋パレードでの登場以来、二度目の登場でした。前回登場していた成田四家と

言われる成田氏、別府氏、玉井氏らが登場していないにも拘らず、奈良氏(奈良五郎)だけ

が、二度目の登場を果たしたのでした。まあ今回の再上洛、頼朝将軍一家を含め、一行全て

が、家族(家之子郎党)同伴・甲冑持参だったようなので、ある程度財力のある武士だけの

参加だったかも知れません。何せ3ヶ月も京都に滞在していたからです。(下級御家人も家族

含めてです。)今回の頼朝一家の行動記録を見てみると、観光旅行だったようにも思えます。

で、奈良五郎に財力があったのかどうかは、良く判りませんが、今回の奈良五郎の再上洛の

目的のひとつは、官職名を得ることにあったと思っています。無論お金さえ出せば得られる

百官名なんですけどね。それでも東国武士にとっては、朝廷から与えられる官職名は、京都

土産として何より貴重な財産だったのでした。奈良五郎がどんな官職名を得たのかは、後の

吾妻鏡から明らかになる予定です。そして7月8日には鎌倉に帰着し、7月10日には一行の御家人達、

奈良五郎達に対しても、お供の任が解かれ、各地元、幡羅郡奈良村に帰還しています。

 

 さて今回は、平和裏に何事も無く終わった1195年以降の動向についてです。何と翌1196年~1199年一杯まで3年間、

吾妻鏡の記述が無いのです。単なる欠落なのか?、それとも意図的削除なのか? まったく不明なので、想像が膨らみ

ますね。この3年間の最大のトピックスは、頼朝の死(1199年1月)です。なので今回の掲示写真は、源頼朝像です。

ちなみにその後の吾妻鏡は、何故か頼朝の死の直後、1199年の2月から再スタートしています。なので世間の噂的には、

頼朝の死がどうも怪しいと、思われる訳なのです。この空白の3年間に、何があったのか?は、非常に興味をそそられる点

ではあるのですが、一方で、奈良氏らの下級御家人には、何の影響も無かったのだろうと考えられるのです。所詮、鎌倉、

京都の、上層部だけでのゴタゴタであったからです。 一応空白の3年間に、何があったのか?を、列挙してみたいと思います

が、まずはその前年(前回の1195年)に、頼朝は再上洛し、3ヶ月間も京都に滞在しながら、朝廷工作を繰り広げていました。

長女大姫の入内工作ですね。この目的のため頼朝は、朝廷工作の窓口を、関白九条兼実から、丹後の局、土御門通親連合にも

乗り換えていました。そんな中、空白の1196年になる訳ですが、この年の11月に「建久七年の政変」により関白九条兼実が、

罷免・追放されてしまいます。勝ったのは丹後の局、土御門通親連合でした。しかし翌1197年10月には、頼朝の親族で、朝廷

工作の筆頭だった一条能保が死んでしまい、頼朝の朝廷工作(入内工作)の窓口がいなくなります。そして翌1198年7月には、

頼みの綱であった長女大姫も死んでしまいます。もはや頼朝にとっては、朝廷工作打つ手なし、の状況になってしまいました。

 

で、ここからは私の想像になるのですが、どうしても平清盛になりたかった頼朝は、今度は次女の乙姫を入内させようと考えた

ようですが、まだ幼かったため、自身も一緒に京都に移住しようと考えたのだと思われます。鎌倉は、頼家に任せようと考えた

ハズです。何故なら跡継ぎの頼家も、既に元服していたから(当時16歳)です。しかし頼朝が京都に移ってしまうと、北条氏を

筆頭とする有力御家人達も、本領を離れて京都の頼朝の元に出仕しなければなりません。東国武士にとって、先祖代々の地で

ある本領を離れることは出来ない相談でした。頼朝が大事と考える朝廷の権威など、東国武士達にとっては、まあどうでも良い

存在であったのでした。この状況により、1198年以降は、頼朝と北条氏を筆頭とする有力御家人達との間には、微妙な亀裂が

生じていたと思われるのです。 そのような中、1198年12月に、頼朝の落馬事故が発生します。偶然なのか故意なのか?は不明

ですが、落馬は間違いないように思えます。頼朝を毒殺などしていたら、吾妻鏡は続いていないハズだ、と考えるからです。

北条氏を筆頭とする有力御家人達にとって落馬事故は、もっけの幸いでした。頼朝の京都行きを阻止出来るだけでなく、御家人

達が望む、理想的な鎌倉幕府の運営体制である「鎌倉殿の13人体制」(合議制=寄合)を実現出来るから、なんです。

 

そして翌1199年1月には、頼朝はあっけなく死んでしまいます。多分落馬事故は、かなりの重傷だったのでしょう。当時の医療

水準では助からない怪我だったのだろうと考えます。頼朝が死んで、早くも翌2月には、吾妻鏡は、2代将軍頼家の治世として

復活しています。しかしながら一旦亀裂の入った将軍家と北条氏を筆頭とする有力御家人達との関係は、完全に修復することは

ありませんでした。頼家は、将軍絶対権威の復活を目指したからです。朝廷第一で将軍専制を目指す頼家~実朝の将軍家側と、

本領第一で有力御家人による合議制を考える、北条氏を筆頭とする有力御家人達との微妙な関係は、天下分け目の「承久の乱」

まで続くことになります。つまり頼家~実朝時代とは、「対立の平和期」とでも言える情勢だったのです。 

ですから以降、本テーマが「奈良姓の歴史概説」ですから、奈良氏の登場していない頼家~実朝期は、割愛します。(次回へ)