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奈良姓の歴史概説5:鎌倉初期、幡羅郡武士の活躍⑥

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

戦後80年続いて来た自由の国アメリカが、今まさに崩壊しようとしています。トランプによって専制国家の仲間入りをしそう

な予感です。トランプの関税政策により、アメリカ経済は間もなく崩壊するでしょう。そうなると物価統制が強化されます。

インフレを抑え込むためです。景気は冷え込み、モノは流通しなくなり、経済統制だけでなく言論統制も強化されて行きます。

反対派は皆、刑務所送りですね。なので移民も当然減りますが、旅行者もアメリカへは行かなくなります。誰もアメリカには

憧れを持たなくなり、ロシア、北朝鮮と並んで、軍事力だけは超一流の、世界の三等国に成り下がりますよ。 これら三ヵ国の

指導者に共通している感情があるのですが判りますか? それは、「怒りと憎しみ、敵か味方か、の選別感情」ですね。

この対策として日本政府は、大量に抱え込んでいる米国債を、紙くずになる前に、早急に処分するべきでしょうね。

 

 さて前回は、源平合戦~奥州合戦の戦の時代がようやく終わり、頼朝が征夷大将軍になり、平和な時代となった1192年8月

14日の、どうでも良いような放生会での奉納相撲の記事に、何と奈良氏一族の名前があったことをご紹介させて頂きました。

奈良藤次でしたね。まあ他の幡羅郡出自の武士達同様、奈良氏一族の安泰も確認出来たことは、何よりでした。そう言えば、

幡羅郡出自の御家人、中条家長も呼び名は藤次でしたねえ。やはり藤原氏に対する、当時の憧れなのでしょうかねえ?

 

 で今回は、そこから更に3年後、1195年1月8日の記事になります。(左端からの書き出しなので、写真が2枚になりました。)

今回の登場人物は、以前も登場している、幡羅郡中条村出身の中条藤次家長が、再登場しています。しかし事件としてなんです。

曰く「豊後守毛呂季光と、中条右馬允家長が、喧嘩を起こした。双方の縁者が集まって合戦のような騒ぎになったので、和田

左衛門尉義盛が騒ぎを鎮めた。頼朝は、中条家長に対し、養父である八田右衛門尉知家を介して、出仕停止の処分を下した。」

のだそうです。まあ血の気の多い東国御家人同士ですからね、喧嘩騒ぎはよくあったようですが、大事になったので、吾妻鏡に

掲載されてしまった訳なのです。それでも吾妻鏡に載るぐらいですから、両者の御家人としての地位も高くなっていたようです。

豊後守毛呂季光とは、武蔵国入間郡(現毛呂山町)出自の御家人ですが藤原氏系で、頼朝とは石橋山合戦以来の繋がりであった

ようです。で、吾妻鏡では、この辺りの地位の影響についても書かれているのですが、頼朝は、毛呂季光は直接御所に呼び、

直接叱っているのですが、中条家長の方は、八田知家を通じて出仕停止の処分を伝えています。どういうことなのか? この

状況から、毛呂季光と中条家長の地位・立場の違いが見て取れます。毛呂季光は、頼朝から準門葉(源氏一族に準じる)の

厚遇を受けていたそうなのですが、またもう一方の中条家長も、有力御家人である八田知家の養子になったことで、御家人内

での地位を向上させていたのでした。(八田知家も、名門宇都宮氏の系統でした。)吾妻鏡は、どちらも増長・慢心していたから

なのだ、との比較的中立的?な書き方です。まあ御家人同士だから、と言う事なのでしょうかね?

これらの記述からは、鎌倉幕府内での、家柄についての御家人間の勢力争いの様子が見えて来ます。(東国武士など、皆どこの

馬の骨か判らない者どもばかり、なんですけどねえ、、、しかし実際はまだまだ、貴族社会意識が、続いていたようです。)

 

 で、これほど出世欲が強かった?、幡羅郡中条村出自の中条氏の祖、中条家長なのですが、この事を裏付ける記述を、家長が

開基したと伝えられる寺院、常光院の縁起の記述から、見て取ることが出来るのです。(リンク参照)

ご覧になりましたかね? まず中条家長の祖父?、藤原常光?が武蔵国司として下向して来た所から、縁起は始まっています。

成田氏の家伝ともよく似ていますね。藤原氏の子孫を主張したかったのでしょうが、年代が具体的過ぎます。まあそのために

八田知家の養子になったとも考えられます。何故なら八田知家の実家は、名門宇都宮氏で、宇都宮氏は藤原氏の末裔を名乗って

いたからなのです。つまり出世願望の強い中条家長は、自らの家柄を藤原氏と繋げるために、藤原氏の末裔を名乗る八田知家の

養子になった訳なのです。だって毛呂季光は、藤原氏の末裔と言うだけで、頼朝から準門葉の扱いを受けていたから、ですわね。

その後中条家長は、地元の上中条に常光院を開基し、中条氏が藤原氏の子孫だとする寺の縁起を広めようとします。この辺りの

展開は、後の成田氏による龍淵寺を活用した家伝流布作戦と、そっくり同じなのですね。もしかすると、成田顕泰・親泰親子が、

この中条家長の家伝流布手法を参考にしたのかも知れません。それくらい常光院縁起は、成田氏家伝と良く似ているのですよ。

その後中条家長は幕府の評定衆(閣僚)となり、三河国加茂郡高橋荘の地頭に任ぜられるなど、大出世を遂げている訳なのです

が、中条家長の目論んだ家伝流布の点では、残念ながら上手く行かなかったようです。何故なら、まず今回の吾妻鏡で、藤原氏

の末裔?を名乗る八田知家の養子になっていた裏事情がばれていますし、せっかく創った常光院の縁起の方も、江戸後期編纂の

「新編武蔵風土記稿」の上中条村の項では、信ぴょう性が無いとして、ぼろくそに言われている訳なんです。新編武蔵風土記稿

の編者から、何故か強く支持された成田氏家伝と、誰も信じてくれなくなった中条氏家伝は、実に好対照に感じられるのです。

鎌倉時代の東国は、武家社会とは言え、その内部には、平安期の身分社会が色濃く残っていたことが良く判る事例なのです。

さて次の登場人物は?(次回へ)