· 

奈良姓の歴史概説5:鎌倉初期、幡羅郡武士の活躍⑤

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 今回のコメ騒動において、現在は古古米、古古古米を中心とする

小泉米の話題が続いております。まあ値段が安いですからねえ。

多分、あっという間に売り切れてしまうのでしょう。で問題とは、

小泉米が売り切れてしまった後のコメの状況なんです。新米はまだ

出ていません。本年産は相変わらず高いままです。備蓄米の古米を

買い占めたJA全農は、値下がりを防ぐため、小出しにしか、在庫を

出さないのですよ。次はこれが問題になると、多分予測されます。

最善策は、余れば備蓄米へ転換で、今年限りのコメ輸入ですよ。

 

  さて前回は、日本の武士の棟梁となった源頼朝が、遂に上洛し、

凱旋パレードを行った1190年11月7日の吾妻鏡の記述を、見て参り

ました。我らが奈良氏を含む、幡羅郡出自の武士達が、遂に勢揃い

したのでした。しかしその後は、戦も無くなり、彼らのような下級

御家人達が登場する場面は、ほとんど無くなります。吾妻鏡の方も

戦記的な記述から、幕府の業務日誌的な記述になって行きます。

まあ読んでもつまらないので、誰も注目しない内容が、今回の建久三年(1192年)8月14日付けの掲示文書なんです。

しかしそれでも、我々奈良姓の人間にとっては、これもそれなりに重要な記述なのですよ。では、

 

この年、源頼朝は既に全国の武家を統一し、東日本の実質的統治権も獲得していたため、征夷大将軍に任じられています。

更には、この年の3月には、目の上のたん瘤であった後白河法皇も崩御し、朝廷の後継はまだ若い後鳥羽天皇であったため、

頼朝は、我が世の春を謳歌している状況だったのです。こんな平和な世情であったため、吾妻鏡の記述も、後白河法皇の

崩御関連の記事以外は、鎌倉での年中行事の記録ばかりの記述でした。そんな8月14日の記述なのですが、何と鎌倉御家人、

奈良氏一族の名前が、発見出来るのでした。まあどうでも良い内容だからこそ?、登場出来た、とも言えそうなんですが、、、

「鶴岡八幡宮の放生会(祭祀)で奉納される奉納相撲の取り組みが決められた。」そうで、一番目で奈良藤次 対 荒次郎の

記述があります。2年前の頼朝上洛凱旋パレードでの初登場以来、2度目の奈良氏登場です。まあどうでも良いようなお役目

ですが、それでも吾妻鏡に名前が載ることは、名誉なことではあります。相撲大会とは言え、序列一番ですからね、すごい

と思いますよ(笑) 奈良藤次については良く判りませんが、2年前の頼朝上洛凱旋パレードに登場していた、奈良五郎と

奈良彌五郎は、まだ存命だろうと思われますので、多分彼らどちらかの子供なのだろうと思われます。もちろんまだ若者です。

相撲大会に登場している彼らは、家長ではなく、鎌倉番役(奉公)として出仕している若者達だろうと考えられます。なので

後の方の名前は、名前というよりは普段の愛称(あだ名)が書かれたものと思われます。(多分、幼い子供もいるのかな?)

下級御家人である奈良五郎や奈良彌五郎の方は、鎌倉在住ではないので「いざ鎌倉」という時だけ、本領である幡羅郡奈良村

から鎌倉へと、はせ参じた訳なのです。(実際は既に平和な時代になっていたので、はせ参じることは無かったのですけど、、、)

またこの奉納相撲大会を執り仕切った人物は、藤判官代とありますので、頼朝の祐筆(京官吏)でもあった藤原邦道であったと

思われます。祐筆がいると言うことは、上級貴族の証しです。まあ頼朝も、武家とは言え、京では貴族でもある訳です。(それ

も最上位クラスの官位)ですから祐筆がいて当然なのです。貴族は、無論字が書けましたが、上級貴族には祐筆がいたのですよ。

しかし当時の鎌倉御家人達は、字の読み書きが出来なかったようなんです。それまでの武士には必要の無かった字の読み書きが、

武士の世になって、武士にも下文などが出されるようになったため、字の読めない武士にも、その後は祐筆が必要になって

行ったのでした。祐筆の意味が変わって行った訳です。ちなみに、武家政権最初の法律と言われる、「武家諸法度」を制定した

のは、鎌倉幕府三代執権の北条泰時ですが、1221年の承久の乱の当時は、鎌倉幕府軍の総大将でありながら、字が読めなかった

のは有名な話しです。(吾妻鏡で、承久の乱での宇治川合戦あたりを読んで行くと、判りますよ。)

とは言え、鎌倉御家人奈良氏一族が、どうでも良い相撲大会であったとしても、健在であったことは喜ばしい限りなのです。

さてこの後も、奈良氏など、幡羅郡出自の武士達の活躍は続くのでしょうかね? (次回へ)