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奈良姓の歴史概説5:鎌倉初期、幡羅郡武士の活躍④

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

 今世間では、小泉備蓄米への期待が膨らんでいる訳ですが、所詮

まずい古古米だから安いのだろう、と言う意見もあるようです。

なので全農が抱え込んだ備蓄米の方は、安くはならないだろうと思わ

れているようです。しかしなんです、全農の落札価格は、60Kg当たり

¥21,217 だったので、5Kg当たり¥1,768 ぐらいなんです。つまり精米

費や輸送費、多少の利益を乗せても、¥3,000ぐらいで販売出来るハズ

なんです。これをまだ、¥4,000 ぐらいで販売しようとしているならば

、全農・卸業者は、まるで反省が無い事が証明されるのですよ。

 

 さて前回は、文治五年(1189年)7月19日の奥州征伐への出陣式

の陣立て名簿から、成田七郎助綱登場を見て参りました。成田氏は

、頼朝により長門国(山口県)へ左遷させられた、箱田小太郎広貞

の後釜として抜擢されたのだ、と言うのが私の見解でした。なので

成田氏には、故地と言われる熊谷市上之にも、平安末期~鎌倉期に

かけての成田氏の遺構・遺跡が、何も存在しない訳なのですよ。

で、肝心の頼朝の奥州征伐の方は、藤原泰衡軍があまりにも弱く、奥州藤原氏は、僅か2ヶ月で敗戦・滅亡に追い込まれています。

この時武蔵国幡羅郡出自の武士達も軍功を挙げ、成田氏、奈良氏らは、陸奥国鹿角郡に地頭職を得たりしていますが、後に尼将軍

北条政子が、この時の武蔵武士は強かった!と言うほどには、武蔵武士団が強かった訳ではありません。本当は、奥州藤原氏軍が

弱すぎただけのこと、だったのです。(特に藤原国衡と泰衡、) 実戦経験が乏しかったから、なのでしょうね。

 

 こうしてあっけなく日本国内の武士団を統一した源頼朝は、翌年の建久元年(1190年)11月7日に上洛し、凱旋パレードを行い

ます。頼朝の鎌倉幕府を、日本最初の武家政権と見る向きもありますが、頼朝が上洛し、凱旋パレードを行ったことは、頼朝の中

では、朝廷貴族社会の中での一部門(軍事部門)としての鎌倉幕府だ、という認識だったように思われます。朝廷に恭順している

訳です。だからわざわざ上洛している訳なのです。ですから凱旋パレードは、頼朝の晴れ姿を披露し、朝廷と京都市民から褒めて

もらい、喝さいを浴びるのが目的でした。結果、頼朝の目論みは、大成功を収めます。

 

この時の大行列の参加者が、吾妻鏡には延々と書かれていまして、今回の掲示は、凱旋行列名簿の一番最後の部分のみ、です。

まあ頼朝軍の中では、その他大勢の部類ですね。行列の陣立ては、先陣の騎馬兵 ⇒先陣の隋兵横3列で180人 ⇒頼朝と騎馬兵 

⇒後陣の隋兵横3列で138人 ⇒後陣の騎馬兵 という大行列でした。その最後の頁ではありますが、まず最初、右頁の30番に

中条藤次(家長)の名前があります。以前の、源平合戦源範頼軍の出陣式で名前の登場した幡羅郡出身武士ですね。同じ幡羅郡

出身武士達より少しだけ、序列が上がったように見えます。(やはり北条義時との関係かなあ?)

そして、この後陣隋兵の最後の方の38番からは、まず成田七郎(助綱)の名前が見えます。続いて39番で別府太郎、奈良五郎、

同弥五郎と続き、40番で岡部六野太、滝瀬三郎、玉井太郎、41番で玉井四郎まで、多数の幡羅郡出自の武士達が、固まって

パレードに登場しているのでした。全てが源平合戦や奥州征伐で、功績のあった者達なのでしょう。我が奈良氏は、2人もこの

行列に参加しているのです。後代の奈良氏一族にとっても、この上洛パレード参列は、大きな誉れであったと思われます。

従って私は、このパレードに参列した成田七郎助綱が、鎌倉成田氏の祖になったと考えると同様に、奈良五郎が、武家奈良氏の

祖になったのだろう、と考えるのです。(なので奈良五郎の名が、後代の南北朝期奈良氏にも引き継がれた可能性もあるのです。)

ですから奈良氏の祖とは、成田系図に出て来る奈良三郎などではありません。保元物語に登場している奈良三郎は、吾妻鏡登場の

奈良五郎、弥五郎の父親だったかも知れませんが、奈良氏初代ではありません。奈良三郎にも、成田助隆ではない、奈良村出自の

父親が存在したからです。このことは、同じ凱旋行列の別府太郎や玉井四郎についても、もちろん同様です。(あ!でも、別府

小太郎清重の父親は、別府義重だったかもね!? ※平家物語:老馬)

まあ多分、後の東国下級武士団の多くが、この時のパレード参列者を、祖としているハズです。(安保氏とか、忍氏、玉井氏など。)

そしてもちろん、みやこ人は、やんやの喝さいを以て、この大行列を迎えたと思われます。この行列陣立て名簿は、成田氏家伝の

成田四家(成田、別府、奈良、玉井)伝説を補強する証拠史料?としても、大いに活用されました。しかしながら、奈良氏と玉井

氏の間に、四兄弟?が分断されて、岡部氏や滝瀬氏の名が入っている点などは、どのように解釈したのでしょうかねえ? 

何故なら岡部も滝瀬も、幡羅郡の村々の名前なんですけどねえ、、、。

ちなみに滝瀬村(深谷市)とは、1万円札の渋沢栄一の生誕地で有名になった、血洗島村の地と同じ村の名前です。

更に42番に、お隣り埼玉郡出自の忍三郎、忍五郎が登場していると言うことは、少なくとも鎌倉初期までは、忍の地(行田市)

は、成田氏の土地(故地?)などではなかった!、ことを示している訳なんですけどねえ、、、。

 

また、注目して頂きたいのは、37番です。筥田太郎の名前が見えます。判りずらいのですがこの人物、私は箱田小太郎広貞だ

思っています。筥の字は「はこ」と読むからなんです。頼朝から改名されていますからね、敢えて?この筥の字を使ったのだ

思われるのです。頼朝により、箱田広貞から、箱田頼道に改名された箱田氏ですが、後代の箱田氏の子孫は、頼朝から与えられた

頼の字などは使わずに、室町期の厚狭郡下津の地頭、箱田伊賀守弘貞など、広貞の貞の字を、代々継承していたようです。

その意味で、箱田小太郎広貞こそが、長門国厚狭郡の地頭、箱田氏の祖であったのだろうと、思われるのです。

 

と言う訳で、保元の乱で軍功を挙げ、農民(雑徭)から武士となった、武蔵国幡羅郡出自の東国武士達は、源平合戦~奥州合戦を

経て、何とほぼ全員が、頼朝の上洛凱旋パレードに参列出来るまでに、大出世していたことが、明らかになったのでした。

でも、我らが奈良氏は、その後も何とか生き延びて行くことは出来たのでしょうかね? 地味な奈良氏ですので少し心配ですが、

その後の記録など、何かあるのでしょうか?(次回へ)