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米の高騰を筆頭とする現在の物価高ですが、我々年金生活者だけでなく多くの国民が、青息吐息の状況に追い込まれています。
思い出すのは「狂乱物価」と言う言葉が生まれた1974年頃なのですが
、物価が全体で31%も上昇し、今と同様、日本中が大騒ぎしていたの
です。でも我々若者は、さほど動揺しなかった記憶なんです。だって
賃金も33%も上がっていたからです。しかし現在は、賃金上昇以上に
物価が上昇している訳です。この状況では夏の参院選挙で、与党は間違いなく、大敗北を喫するだろうと、予測が出来るのです。
保元の乱を描いた保元物語に、何故か大量に登場していた武蔵国は
幡羅郡(主に熊谷市)出自の武士達のその後を、鎌倉幕府の歴史書で
ある吾妻鏡の記述から、探し出しております。何故吾妻鏡か?と申し
ますと、京都発の史料(玉葉など)では、どうでも良い東国武士の
名前などは、出て来ないからなのです。その点吾妻鏡は、東国武士に
よる歴史書ですからね、有力ではない東国武士の名も登場するのですよ。と言う訳で前回までは、源平合戦の最中の中で、
中条村出身の中条藤次家長、玉井村出身の玉井四郎資重の記述を、見て参りました。
彼らを含め、この時代の幡羅郡武士は、武蔵七党の出自との説がありますが、私はそのように考えません。発生時点において
専業武士ではなかったからです。後代の成長によって、武蔵七党説に組み入れられただけ、だと思われます。(南北朝期の白幡
一揆も同じですよ、当時は武士と農民の区別など無かったのですからね。)
今回の吾妻鏡は、1189年7月19日の記述の一部です。この時点で、平家は既に滅亡し、平家打倒の立役者であった源義経もまた、
頼朝によって誅殺されています。頼朝にとっての最後の敵は、奥州の雄、藤原泰衡だけになっていたのでした。この日の記述は、
頼朝の奥州征伐の、頼朝本隊の鎌倉出陣式の陣容名簿の最後の部分なのです。(これ以前に、北陸道軍、東海道軍の別動隊は、
既に出陣済みです。)また掲示写真は、名前が登場している頼朝軍の中では、一番下っ端の方の名簿の最後の頁部分です。
前の数頁では、数十人もの頼朝軍の有力御家人の名前が、武蔵の守義信を筆頭として、当時の序列順に列挙されています。その
最後尾の頁です。まず右頁には、熊谷小次郎直家の名前が見えます。熊谷市の名前にもなった熊谷直実の嫡男ですね。何故有名な
父親の熊谷直実の名前が見えないのか?と申しますと、この時点で親父の方は既に出家していて、法然の弟子になっていたから
なんです。で、熊谷父子は専業武士ですから、私は熊谷小次郎直家は、幡羅郡出自では無かろうと思っています。多分京都かな?、
でも父子の墓は、何故か熊谷市内中心部の、「熊谷寺」にあるんですけどねえ、、、。(※熊谷市中心部は、幡羅郡ではなく大里郡だ
とする説もありますがね、)とは言え相変わらず、市の名前にもなった熊谷氏にも、リンクにあるような怪しい伝説があります。
何でも、暴れ熊を谷で退治したので熊谷姓になったのだそうですが、そもそも熊谷市は、関東平野のど真ん中で、熊の出るような
谷(山野)など、存在しないのですがねえ、、、。まあ良く判らない伝説なのですよ。
次に登場しているのは、前々回も西国への出陣式で登場した、中条藤次家長です。まだ下っ端御家人のようですね。何故か?、
源平合戦の時は、源範頼の部隊だったからですよ。源範頼も義経同様、平家打倒の立役者なのですが、謀反の疑いで、源頼朝に
配流・誅殺されているからです。頼朝は義経や範頼本人だけでなく、部下も疑っていたからなんです。同じことは、玉井四郎や
別府小太郎にも言えたのだろうと、私は思っています。平家打倒という軍功を挙げながら、頼朝時代は、さほど評価されなかった
のですよ。中条藤次家長が、幕府の評定衆(閣僚)として出世するのは、北条氏が幕府の権力を奪取してから後のことなのです。
さて、左頁でようやく、成田七郎助綱の名前が初登場しています。私は彼こそが、後の成田氏の初代なのだろうと考えています。
成田系図や成田氏家伝により広められている成田四家伝説も、単なるフェイクです。但し、幡羅郡出自の成田氏を否定する訳では
ありません。保元物語にも成田太郎は、一応登場はしていますからね。それが成田七郎助綱の登場によって、俄然注目の存在に
なったのです。成田七郎助綱は、まあ、保元物語に登場した、成田太郎の息子と見ることも出来ますが、七郎なので嫡男ではなか
ったのだろうと思われます。なので、その後の北条政権で出世を遂げ、後の鎌倉期成田氏の初代になる訳なのです。でもどうして、
成田七郎助綱は、末席とは言え、頼朝の奥州出陣式という晴れ舞台に、御家人として登場することが出来たのでしょうかねえ?、
実に素朴な疑問なんですが、、、。
私は成田七郎助綱の初登場と、その2年前の文治三年(1187年)二月の、箱田小太郎広貞という人物の、長門国厚狭郡(山口県
山陽小野田市)への地頭職補任が、セットになっていたからだ、と考えています。箱田小太郎広貞?、あまり聞かない名前ですね。
しかしこの箱田氏も、保元物語にも登場していた、幡羅郡箱田村(熊谷市箱田地区)出自の武士なのです。実はこの箱田氏とは、
縄文時代後期から平安末期まで続く、「箱田氏館跡」の遺跡(熊谷市教育委員会)も残っている程の、箱田村の大変古くからの
豪農(豪族)であった、と考えられるのです。で、この箱田一族と思われる箱田小太郎広貞は、源義経の家臣として従軍して、
壇ノ浦合戦で平家を滅ぼす軍功を挙げました。この功績により、箱田小太郎広貞は、源頼朝より、長門国厚狭郡の地頭職に補任
され、更には鎌倉の鶴岡八幡宮から惣社八幡宮も勧請されて、文治三年(1187年)二月には、大宮司職にも就任しています。
(惣社八幡宮由緒書きより、)つまり箱田小太郎広貞は、恩賞とは言え、長門国へ領地替えをされている訳なんです。普通恩賞は、
本領安堵+新領なんですけどねえ、、、更には、頼朝から名前を、箱田小太郎広貞 ⇒箱田長門守頼道へと、改名を命じられている
そうなのです。(寺社証文記載の社伝より)と、ここまで来ると、何かおかしいな?、と思われる訳です。
この頃(文治三年頃)、源義経は謀反の罪で全国指名手配中であり、頼朝は義経の名前を、何と「義顕」へと改名しているんです。
義経の名声を消し去ろうとする魂胆ですね。私はこれと同じことを、義経の家臣であった箱田小太郎広貞におこなったのだ、と
考えるのです。つまり、箱田小太郎広貞の移封は、栄転ではなく、鎌倉からの左遷であったのです。吾妻鏡にこの箱田小太郎広貞
(頼道)についての記述はありませんが、このことを暗示する記述が、吾妻鏡の文治三年の2月20日の記述にあります。曰く
「鎮西の宇佐神宮(大分にある全国の八幡宮の総本宮)の神官と御家人の多くが、頼朝の御恩に浴した。あるものは新領を給され、
あるものは本領の安堵を受けた、」のだそうです。これだけ読むと、何のことか判りませんが、上記の事情を勘案すると、はは~ん、
となるのですよ。ちなみに長門国厚狭郡の地頭箱田氏は、室町中期に、大内氏により滅ぼされるまで、続いていたようです。
そして文治五年(1189年)7月の成田七郎助綱の登場です。成田氏系図では、成田四郎?助綱が嫡流には、なっているのですが、
何故か成田広能という兄がいて、成田広能は何故か箱田を名乗り、何故か門司(北九州市)で戦死したことになっているのです。
怪しいですねえ~。私は単純に、箱田小太郎広貞の長門国厚狭郡の地頭職補任(移封)により、頼朝の命により、箱田氏の領地
(熊谷市箱田地区)を引き継いだのが、成田七郎助綱だったと考えます。しかし古く縄文時代から続く箱田村の領民達は、すんな
りと新しい地頭、成田氏を受け入れることは出来ません。だって箱田小太郎広貞は、平家打倒の立役者で村の英雄だったからです。
そこで困った成田七郎助綱は、自分は箱田小太郎広貞の弟であり、兄箱田小太郎広貞は、門司で戦死したので、自分が跡を継いだ
のだ!と、領民にウソをついたのでした。こうして箱田氏領を引き継いだ成田氏は、鎌倉幕府の表舞台に登場することが出来たの
でした。しかしその後、熊谷市に残る名家箱田氏の痕跡(三郎社など)は、後の成田氏によって、消し去られて行くことになるの
です。その結果、江戸後期の新編武蔵風土記稿で、古くからの伝統のある箱田村は、上之村の新田!?などと言う、訳の判らない
記述にされてしまったのでした。これも実は、成田氏家伝・成田系図の影響のひとつなのですよ。
さて、幡羅郡出自の武士たちの登場ですが、そろそろ奈良氏も、登場するのでしょうかね?(次回へ)

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