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日本で唯一の稼ぎ頭である自動車産業が、最大のピンチを迎えています。
トランプ関税しかり、日産の不調しかりです。もはや自動車生産で儲ける
のは、関税がどうなろうと、不可能になりつつあるのかも知れません。
製造業なら、自動車よりも、もっと高付加価値の商品を作るしかないの
ですよ。では日本はこれから、何で食って行くのか?なんですが、私は
老人大国日本には、もはやサービス産業しか残っていないと思います
けどねえ、、
前回は、源平合戦中の幡羅郡出身武士の記録として、1184年8月8日の
吾妻鏡の記述から、幡羅郡中条村(熊谷市中条)出身の中条藤次家を、
紹介させて頂きました。保元物語での登場から、28年後の姿でした。
源平合戦では大量の東国武士を動員しましたから、幡羅郡出身武士の
名前も、数多く発見出来るハズです。と言う訳で次に発見したのが、
同じ吾妻鏡 1184年9月20日の、今回掲示写真の左頁記事でした。
幡羅郡出身武士の中では最も有名?と思われる、玉井四郎の登場です。
玉井四郎のことは、江戸後期の昌平坂学問所編纂による武蔵国の地誌である「新編武蔵風土記稿」の玉井村の項で、詳しく紹介
されています。幡羅郡玉井村(熊谷市玉井)※奈良村の西南隣りの村の出身です。保元物語でも玉井三郎、四郎で登場しておりま
したが、その後28年も経過していますので、まあ次の世代だろうと、考えられます。(保元物語の白川殿攻め落とす事で玉井三郎、
主上三条殿に御幸の事で玉井四郎です。)まあこの名前、単に玉井村出身の三男・四男坊と言うような呼称ですからね。(※北条
義時=江間小四郎=伊豆江間村の小四郎、と同じです。) で、問題は記事の内容なんです。
曰く「玉井四郎資重の蛮行についての院宣が本日到着した。関東武衛(頼朝)は甚だ恐縮し、直ちに蛮行を停止させるよう指示を
出した。」との事です。そしてその院宣の中身とは、「丹波国の一宮である出雲社の領地は、能盛法師が預かり、長年管理している
蓮華王院(三十三間堂)の領地で、地頭を称する輩がいるとは聞いたことが無い。にも拘らず、鎌倉の下文ありと称して、玉井
四郎資重が押領を行っているのはおかしい。この乱行をすぐに停止せよ、と言うのが後白河院のご意向である。」との内容です。
まあ頼朝と後白河院では身分が違いますから、間接文書ですわね。しかし院宣ですから頼朝としては一応恐縮して、玉井四郎資重
に対して、押領中止の指示を出した、と言う訳です。
この時はまだ、一の谷合戦(神戸市)の前後ですから、鎌倉軍は近畿各地に駐留していたようです。そしてこの当時の遠征軍の兵糧
は、当然のことながら現地調達ですから、近畿各地の荘園で、押領を働く訳です。別に玉井四郎資重に限ったことではありません。
以前のブログで、奈良時代の多賀城遺跡(宮城県)で、幡羅郡から米(兵糧米)が運搬されていた木簡出土の話しをご紹介させて
頂きましたが、あれは裏を返せば、押領したくとも奈良時代の蝦夷地には、押領する米が無かったから、仕方なく幡羅郡から米を
送った、ということなのです。ましてや今回の戦場は、米どころ西国です。ですから東国武士団進駐軍としては、現地で押領する
のが当たり前だったのです。ところがです、後白河院はわざわざ頼朝へ、抗議の院宣を送り付けている訳です。これ、どういう事
なのでしょうか? 実は玉井四郎が押領してしまった出雲社領地が、後白河院の私領だったからなんですよ。自分の領地が押領
されるのが嫌だったからだけ、の事なのです。他の貴族の 荘園であれば、多分文句は言わなかったと思われますよ。
この平安末期(鎌倉初期?)は、これほどまでに、荘園(私領)だらけになり、公領制度は完全に崩壊していたことが判るのです。
ですからこれから先の世は、建て前の時代ではなく、武士(武力)の時代になるのですよ。
ちなみに吾妻鏡の記述だけではなく、平家物語の方でもこの玉井四郎は、この1184年の一の谷合戦での、落足の段で、平通盛を
討つ手柄を挙げています。(名前は玉井四郎資景に変わっていますけど。)また、幡羅郡出身の武士では他に、老馬の段で、別府
小太郎清重と父親義重法師が登場しています。つまり保元物語に登場した幡羅郡出身武士達は、鎌倉初期に入っても、代を重ねて
しっかりと活躍していたことが判るのです。(奈良氏はまだかなあ?)
と言う訳で、恐れ多い院宣を貰いながら、玉井四郎資重に対する頼朝の処罰は、ほとんど無かったのだろう、と推測出来ます。
せいぜい、「院の領地だけは、押領しちゃダメよ、」ぐらいの甘い指示であったと思われます。
何故ならこの玉井四郎、翌年もう一度、頼朝から強い叱責を受け、鎌倉追放処分を受けるのですが、それでも1190年11月の、
頼朝上洛凱旋パレードでは、ちゃんとパレードの行列に参加出来ているからなんです。私は玉井四郎が、当時の超有名人になって
いたからだろう、と思っています。スターになってしまったので、都での凱旋パレードに参加させざるを得なかったのですよ。
さてそれでは、その他の幡羅郡出身武士達の状況は?(次回へ)

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