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奈良姓の歴史概説5:鎌倉初期、幡羅郡武士の活躍①

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。 米国でも

欧州、日本でも、民主主義国の内部で、トランプ支持者に代表されるよう

な過激な主張が、急速に台頭して来ています。戦後民主主義の衰退か?、

などと言われていますが、何故過激派が勢いを増すことが出来るのか?

が、うまく理解されていないと思います。過激派の人々は理屈ではなく、

パッション(怒りや激情)が根底なのですが、民主派の根底にあるのは、

寛容や穏健なんです。過激派に対峙しても、寛容や穏健なんです。つまり

両者がぶつかっても、戦いにならず、必ず過激派が勝つのですよ。寛容や

穏健では戦えないことを、民主派の人々は、理解すべきだと思いますよ。

 

 さて前回は、平安末期の保元の乱の戦いで、武蔵国幡羅郡出身で都の

朝廷に仕えていた雑徭・使役達が、何故か軍功を挙げ、帰還したそれぞれの村で、武士(下司職・地頭)となった経緯を見て参りました。

今回からは、武士となった幡羅郡武士達のその後を、吾妻鏡等の史料から

見て行きたいと思います。しかし武士になったとは言え、彼らは熊谷直実や斎藤実盛のような有名専業武士ではなく、

農家兼業の無名武士な訳です。まあ頼朝挙兵や源平合戦の頃ですから、頼朝の御家人には、簡単になれたのでしょうが、

兵卒クラスの下級御家人が、吾妻鏡等の史料に登場することなど、普通はほとんど無い事なのでした。

 とは言え、幡羅郡出自の下級御家人も、たまには記録に登場することもありました。その最初が、掲示写真の吾妻鏡、

1184年8月8日付けの記録です。内容は、「平家追討のため、源範頼を大将とする千余騎が、西海に向け出陣した。」として、

主な武将の名前が列挙されています。先頭は、北条小四郎=若き日の北条義時ですね。まあ代表メンバーがこのクラスだと

言うことは、将来有望な若手中心の編成だったことが判ります。目付け役の有力御家人は、千葉常胤ぐらいでしょうかね?

これらの名簿の中にただ一人、幡羅郡出自の武士がいるのですが、お分かりですか? 左頁、大河戸氏の次に書かれている

中条藤次家長です。幡羅郡中条村(熊谷市中条)の御家人で、鎌倉幕府内では一番出世した幡羅郡出身武士だと思われます。

後の北条泰時の時代には、評定衆の一員(閣僚)にも選ばれているからです。1184年時点では保元の乱から28年後ですから、

前回記述の保元物語に登場している、中条新五、新六の子供であろう、と考えられます。

この中条藤次家長を祖とする中条氏ですが、有力御家人となり、所領は変わっていますが室町後期まで続いたため、地元の

熊谷市には、成田氏と同様の伝説が誕生しています。この中条藤次家長が開基したとされる寺院「常光院」が熊谷市上中条に

あるのですが、その由緒書きでは、中条氏は元々は藤原氏で、藤原常光が1132年、武蔵国司として下向し、中条の地名を姓

として土着したのだそうです。そして中条常光の孫の中条藤次家長が、頼朝の家臣として出世し、1192年に自分の館跡を寺

として、現在の常光院を開基したのだそうです。どうですか?、成田氏の家伝とそっくりですよね。この寺伝については、

常光院ホームページ」のリンクで皆さんもご確認頂けます。また中条藤次家長は、Wikiにも載っておりまして、武蔵七党の

横山党小野氏の出身なのだそうです。この辺りも、成田氏の出自説とそっくりな展開ですわね。まあ私は、藤原氏でも横山党説

でもなく、幡羅郡中条村の農民(雑徭)の出だったと思っていますけどね。成田助隆、中条藤次家長、熊谷直実、斎藤実盛と、

どうして熊谷市には、この手の伝説が多数作られるのですかねえ、まあそれだけ歴史が深い、と言う事なんでしょうけどね。

 

源平合戦の頃の史料では、吾妻鏡の他にも幡羅郡武士として、平家物語では、一の谷合戦の場面で、別府小太郎清重と玉井四郎

が登場しています。幡羅郡別府村と玉井村の出身です。両者とも平家物語では英雄的に描かれていますが、吾妻鏡では玉井四郎

は、悪人として書かれ、別府清重は無視されています。どうしてこうも評価が違うのでしょうか? それは幡羅郡出身武士達が、

源平合戦において、源範頼、義経の配下として活躍したからだ、と考えられます。源範頼も義経も、頼朝によって、その後抹殺

され、記録も消されているからです。なので北条政子の命により、後の北条氏が編纂した吾妻鏡が、彼らを良く書く訳がないの

ですよ。しかし冒頭の中条藤次家長だけは、幡羅郡武士の中で、後に頼朝からは出仕停止の命を受けながら、北条氏との関係が

良かったので、幕府の評定衆(閣僚)にまで昇りつめることが出来たのでした。

私はこの8月8日の記事に登場している、北条小四郎、つまり後の北条義時と、中条藤次家長の関係が良かったから、なのだろう

と思っています。その意味で、この時多分、名前の登場していない、保元物語に登場していた奈良氏や箱田氏、別府氏、成田氏

等も、多分皆一緒に出陣していたのだろうと考える訳なのです。つまり、成田四兄弟部隊などではなく、幡羅郡同郷部隊だった

のです。 さて、8月8日以降の吾妻鏡で、次の幡羅郡出身武士達の登場はあるのでしょうかね?(次回へ)