奈良姓の歴史概説3:奈良・平安期の幡羅郡

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今、日本人の起源研究が、NHKの放送などで話題になっています。元

は、理化学研究所による全ゲノム解析で、従来の縄文人+弥生人の混血だけではなく、古墳時代初めに日本に渡って来た別の東アジア人種

との混血も含めた三重構造で、日本人の祖先のDNAは構成されていた

ことが判明した発表でした。と言う事は、弥生人ではない別の渡来人

によって、古墳時代が始まったとも言えそうですね。非常に面白い

学説が登場したものです。日本の考古学が変わるかも知れませんよ。

 

    前回は、奈良神社の由来書の元になった文徳実録の記述から、古代の奈良村の、当時の状況について見て参りました。 

なので今回は、奈良姓発祥の地である奈良村が属していた、武蔵国の

幡羅郡について見て行こうと思います。現在の熊谷市北部から深谷市

にかけてが郡域でした。東隣りは行田市のある埼玉(さきたま)郡、

南は大里郡でした。現在の熊谷市は、幡羅郡と大里郡に分断されていた訳です。奈良村は幡羅郡でした。現在ではあまり知られて

いない幡羅郡なのですが、近年、重要な古代遺構の発見が相次ぎました。2001年に熊谷市の西別府から深谷市側にかけての広大な

エリア(地図参照)で、7世紀~11世紀頃の幡羅郡の郡衙(役所)跡の遺跡が発見されたのです。現在は、さほど注目はされては

いませんが、かなり重要な遺跡であるらしく、2018年には、何と国の史跡に指定されているようです。

つまり、奈良村、玉井村、別府村と連なるすぐ西隣りに、幡羅郡の中心地である郡衙(役所)の施設群があった訳なのです。

成田氏伝説にも利用されそうな予感ですが、成田氏家伝では、11世紀頃に、藤原忠基なる人物が、武蔵国司として騎西郡に居住

したのが成田氏の始まりなのだそうですから、残念ながら幡羅郡衙遺跡とは、関係ありませんわねえ。

この掲示地図を見ますと、この頃の官衙(役所)群とは、庁舎と倉庫と、祭祀場と寺院から成り立っていたことが判りますね。

武蔵国の府中市に国府・国衙(役所)がありながら、幡羅郡にも、このように広大な郡衙が存在したことは、7世紀当時の朝廷が、

武蔵国を重要視していた現れだったとも考えられます。都から遠く離れた辺境地ながら、逆にこの地辺りまでは、朝廷の勢力圏

だとして、郡庁を造営したのかも知れません。この地は、古墳時代の奈良別命以降も、まつろわぬ蝦夷地征伐のための前線基地、

兵站基地になっていたからなのです。武蔵国国衙(東京都府中市)と同様に、飛鳥時代の7世紀後半の律令制の成立によって、

幡羅郡にも郡衙が造営され、何と平安時代中期の11世紀前半まで存在していたようです。(発掘調査報告書より)と言う事は、

平安中期までは、すぐ近所が役所であった訳ですから、奈良村も玉井村も別府村も、律令制に基づく公田・官田であった、と考え

られます。更には都から遠い東国ですので、平安時代になっても貴族の荘園(私田)にはなりにくかったのだろう、と思われます。

(荘官を別に派遣するのも大変ですから、)また嘉祥三年(850年)5月には国司の上奏を受けて、奈良村の奈良神社が官社に

列せられています(文徳天皇実録)ので、当時のこの地域は、官(朝廷)の影響が強いエリアだったのでした。

更に地図には、西別府祭祀遺跡の名前もありますが、これ、湧水祭祀跡の遺跡なのだそうです。つまり「文徳天皇実録」に

ある、和同四年(711年)の奈良村での湧水だけでなく、別府村でも湧水が存在したことは、このエリアが大稲作地帯であったこと

を表しています。ですから大同四年(809年)に幡羅郡から米が運搬されて来た、との木簡記録が、宮城県の鎮守府多賀城遺跡で

発見されている訳なのです。古墳時代の奈良別命だけでなく、平安時代になってもなお、幡羅郡は蝦夷地(奥州)征伐(平定)の

ための兵站基地であったことが、良く判るのです。

逆に言えば、平安時代までの古代日本で、朝廷の影響(支配)が及んでいたのは、実は東国(関東)ぐらいまでだった、とも言える

のです。もっとも、続日本紀などでは、征夷大将軍になった坂上田村麻呂が、平安初期の延暦二十年(801年)に、蝦夷を平定し、

翌年には蝦夷の親玉である阿弖流為(アテルイ)が朝廷に降伏したりもしています。しかし実情は、蝦夷地(東北地方)に持続的な

朝廷の支配が及ぶ訳でもなく、単にその時々の戦いに勝利しただけの事、であったようです。

それが証拠に、その後の蝦夷地(東北地方)は、税を納める訳でもなく、半ば独立国的に存在し続けていたからです。都の朝廷に

対して、おとなしくさえしていれば、それで良かったのですよ。

ですからその後平安後期には、再び蝦夷は反乱を起こし、前九年の役(1051年~1062年)、後三年の役(1083年~1087年)が勃発

している訳です。この反乱の原因とは、陸奥国の国司(受領)が、安倍氏に対し、税を納めろと命じたのが発端です。

平安後期であってもまだ、奥六郡(岩手県)辺りは、まつろわぬ半独立国であったことが判るのです。そこで朝廷は、源頼義・義家

父子を奥州に派遣し、再び蝦夷の安倍氏や、清原氏を成敗した訳ですね。この時、多くの関東の兵が陸奥国に送られたと考えます。

東国における源氏(武士勢力)の台頭です。この頃西国では、軍事貴族として平家が台頭しています。

ちなみにこの前九年の役で、都から奥州へ下る源頼義を、東山道途中の幡羅郡?で出迎えたのが、成田氏初代の成田助隆であった、

というのが、成田記にある成田氏伝説ですね。前九年の役は、1051年~1062年まで10年以上も、だらだらと続いた戦いでしたから、

兵站地である幡羅郡も、それなりの貢献をしたものと思われます。それが成田記の成田氏伝説に繋がったのかも知れませんね。

しかしこの11世紀中頃を境として、幡羅郡郡衙も鎮守府多賀城も、突然衰退・放棄されてしまったのです。一体何が起きていたので

しょうかね? さて幡羅郡もいよいよ、平安末期へと突入して行きます。(次回へ)