奈良姓の歴史概説2:古代の奈良村

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

米国の金融界、産業界、教育界などが、続々とトランプ政策に対して、反旗

を翻しております。もう少しすると、共和党内からも反旗ののろしが上がる

かも知れません。そのような状況に陥った時、あの熱狂的なトランプ支持者

達は、自ら考えを変えるのだろうか?、と言う疑問です。私は、変えないと

思いますよ。何故ならトランプ支持とは、言わば宗教で、信仰だからです。

もっと言えば、立花孝志氏によって改宗された?兵庫県民も、実は同じかも

知れません。宗教ですから、正義対正義の戦いになるんですね。どうして

政治はいつも、宗教戦争になってしまうのでしょうかねえ?、、、

 

 さて前回は、奈良姓の発祥由来として、熊谷市中奈良にある、奈良神社の

由緒書きを見て参りました。祭神である古墳時代の奈良別命から、奈良村

の名が生まれたのでした。今回は、その後の奈良・平安期の奈良村の状況が

記録されている唯一の歴史史料である、「日本文徳天皇実録」(掲示写真)を、見て行きたいと思います。

略して文徳実録とも呼ばれる「日本文徳天皇実録」とは、文徳天皇の時代(850年~858年)の歴史を、清和天皇の勅命により、

879年に編纂・記録した、続日本紀に続く、日本の正史なのです。まあ平安初期の歴史書ですね。

そして驚くべきことに、この文徳実録に何故か?、武蔵国の奈良神社・奈良村の記述があるのですよ。今回は、この記述を読んで

みようと思います。原文は漢文です。 巻一、嘉祥三年(850年)5月19日の記述です。「從五位下藤原朝臣菅雄爲民部少輔。詔、

以武藏國奈良神列於官社。先是、彼國奏請。検古記、慶雲二年、此神放光如火熾。然其後、陸奧夷虜反亂。國發控弦。赴救

陸奧、軍士載此神靈、奉以撃之、所向無前。老弱在行、免於死傷。和銅四年神社之中、忽有湧泉。自然奔出、漑田六百餘町。

民有疫癘、祷而癒。人命所繋不可不崇、從之。」だそうですが、皆さん判りますか? 私も良く判りません。

 

そこで京都女子大による「訳注日本文徳天皇実録(四)」の現代語訳の助けを借ります。まずは人事の記録から、「從五位下の

身分の藤原朝臣菅雄を、民部少輔とした。」まあ単なる人事記録で、問題はこの次です。「詔(みことのり)するに、:武蔵国

の奈良神(奈良神社)を、官社に加えよと、これより以前、武蔵国が奏請して言うには、:古記を調べたところ、慶雲二年

(705年)奈良神は、火が燃え盛るような光を放っていた。その後陸奥国の蝦夷が反乱を起こしたので、朝廷も兵士を派遣し

救援に赴いた際、兵士らがこの奈良神の神霊を戴いて戦ったところ、向かうところ敵なしであった。また年寄りや年若い兵も

いたが、死傷することはなかった。更に和同四年(711年)には、神社の境内で突然湧水があった。これは自然に湧き出した湧き水

で、田んぼ六百余町を潤した。また住民に疫病が発生した際は、奈良神に祈ると、これが癒えた。このように人命を繋ぐ霊験は崇め

ない訳には行かない、このような奏請理由により、奈良神社を官社に加えた。」のだそうです。どうですか?、なかなか貴重な記録

史料ですよね。

 

この文徳天皇実録の記事から、奈良神社の由緒書きが出来上がったのだろうと、推測出来ます。多分、明治期の頃でしょうかね?

だって江戸後期の新編武蔵風土記稿では、「奈良神社は、祭神も由緒も判らない。」などと書いていましたからね。とは言え、この

文徳実録の記事からは、平安初期の嘉祥三年(850年)5月19日に、奈良神社が文徳天皇により、神名帳に記載される官社へと

昇格した経緯が判るだけではなく、実は遥かに多くの、当時の奈良村に関する情報が得られるのですよ。

まず一つ目は、慶雲二年(705年)や和同四年(711年)=飛鳥時代より以前から、奈良神=奈良別命は祀られていた。(奈良神社

が存在していた。)と言う事実なんです。まあ奈良別命は、古墳時代(5~6世紀)の人物とされていますので、つじつまは合います。

それがようやく、嘉祥三年(850年)5月19日に、武蔵国の請願により、官社に昇格した訳です。そしてこの経緯が、後の

延喜式神名帳(927年成立)にも反映されている訳ですから、まあ史実として考えて良いと思われます。奈良神社は武蔵国

の幡羅郡となっていますからね、奈良神社しか無い訳です。だからこそ、前回述べたように、現在の奈良神社の由緒書きに、

「由緒は判らない」などとする無知で不見識な「新編武蔵風土記稿」の記事など、断じて載せてはいけないのですよ。

更には、由緒書きに文徳天皇実録を挙げていながら、奈良神社についての主題である、官社に列せられた、という記載が、

現在の由緒書きに、全く無い点は、実に許せませんね。間違いなく敢えて消した!、としか思えない仕業なのです。何故

なら「良く判らない」と言う「新編武蔵風土記稿」でさえ、奈良神社が官社であったことは、認めているのですからね。

 

二つ目の情報は、蝦夷の反乱において、多分奈良村周辺の村民達も、兵士として派遣されていたのだろう、ということなの

です。何故なら兵士達は、「奈良神の神霊を戴き戦った」からです。奈良神を知らなければ、神霊を戴き戦うことは出来ま

せんからね。その意味で、飛鳥時代の慶雲二年(705年)においても、奈良村だけでなく行田・熊谷地域は、蝦夷地征伐の

前線基地であった事が判るのです。多分彼らにとって奈良別命は、「ヤマトタケル」のような存在だったのかも知れません。

 

更には、和同四年(711年)に奈良神社の境内で湧水があったと言う記録です。熊谷地方における稲作農業の伝播にも、奈良神が

関係したようです。まあ疫病快癒まで来ると、当時の信仰だわな、とは思いますが、隣りの玉井村や別府村にも湧水伝説があります

から、この地域は湧水が豊富だったようです。ですから奈良神は、当時の地域神としては、村の開拓者であり、戦いの神であり、

農業豊作の神でもあり、疫病快癒の神でもあったという、まさに絶大な神威を有していたようです。だからこそ、当時の武蔵国の

国司・郡司が、敢えて朝廷に、官社に加えるよう請願した訳なのです。でも都から見て、奈良村のような遠く離れた辺境地の神社

の様子を、武蔵国の国司・郡司(朝廷貴族)が知っていたのは、一体どうしてなんでしょうかね? 当時の武蔵国の国府だって、

奈良村からはかなり遠い、東京都府中市だったハズなんですけどねえ?、、、(次回へ)