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そして成田氏伝説は、現代に引き継がれた。Ⅹ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

トランプ関税が遂に発動されましたね。世界中がうろたえている状況で、株価も大暴落

しています。短期的には大混乱に陥る、とは思いますが、私、長期的には楽観的に考えて

おります。何故なら最終的には、アメリカの独り負けで終わる、と思っているからです。

そのためには世界が一丸となって、歯を食いしばって耐えねばならないのですけどね。

トランプの考え方は根本的に間違っています。例えばアメリカの自動車が売れないのは、

日本車等が安いからではありません。アメリカ車が需要に合わないから売れないのです。

相対的に安くなっても、要らない車は売れませんよ。米国自動車産業が復活することも

ありません。因果の歴史の歯車・時間を、逆戻りさせることは出来ないからです。

 

さて今回で「そして成田氏伝説は現代へ引き継がれた」のテーマは、最終回になります。

前回は右の学習会資料から、8頁の成田助隆の記述の怪しさまでを見て来ましたが、今回も

もう少し続けます。「源頼義奥州征伐の際に、助隆が出迎える。」とありますが、成田記

の記述です。源頼義の奥州征伐とは、前九年の役のことで、頼義が奥州に派遣されたのは

永承六年(1051年)のことですから、11世紀半ばです。従って源頼義を出迎えたのだと

すれば、13世紀などではなく、成田助隆は11世紀の人物だったハズなのです。 この点

だけでも、成田助隆の実在性は怪しいと、言わざるを得ません。 更には、仮に11世紀

半ばの人物だったとしても、彼の子供達である6代助広や別府次郎、奈良三郎、玉井四郎

らが登場するのが、1156年の保元の乱で(保元物語)ですので、ほぼ100年後の子供達!

という、あり得ない状況になる訳なのです。つまり成田氏家伝の核心である成田四家伝説

は、初代成田助隆の記述によって、破綻していることになるのです。 ここを触れずに、

堂々と成田氏家伝を伝えている熊谷市江南文化財センターは、逆にすごいと思いますね。

しかし私は、平安末期の成田氏の存在を否定している訳ではありません。ただ、平安末期

の成田氏については判らないのだ、と言っているだけなのです。この点誤解無きように。

更に我が奈良氏は、成田四家としての同族などではない、と述べているだけなのですよ。

 

私が成田氏の初代だと考える、8代成田助綱は、吾妻鏡には何度も登場していますので、

実在の人物であったと考えられます。ただ正確に言えば、成田系図の8代成田助綱と

、吾妻鏡に何度も登場する成田七郎が、同一人物であるかどうかは、不明です。しかし

成田系図は江戸期の作ですから、当然鎌倉期の吾妻鏡の記述は、織り込み済みと考えて

良いのです。また、成田七郎が源頼朝に仕えた頃は、成田氏には所領など無かったと、私は思いますけどね。頼朝の奥州遠征で軍功を挙げたので鹿角に地頭職を得て、更に箱田氏

の長門国厚狭郡地頭職への移封に伴い、箱田氏の旧領地の支配権も得たに過ぎないと考え

ているからです。(領地取得ではなく、あくまでも領地の地頭としての支配権ですね。)

また成田助綱に関しては、プレゼン資料では、成田四郎と称した、と書いていますので、

成田記の作者は、吾妻鏡を読んでいなかった(知らなかった?)可能性もある訳です。

 

 さてその後は、また再び、存在の知れない当主の名前と事績の羅列が続きます。しかし

最も注目すべきは、10頁の12代成田家時でしょう。成田氏家伝では、中興の祖と言われる

重要人物ですが、やはり実在は確認されていません。にも拘わらず、どうして注目すべき

なのかは、実在が確認されている成田顕泰の祖父、と言うことになっているからです。

プレゼン資料でも、成田氏の菩提寺である龍淵寺を創建したとあります。成田氏家伝普及

の総本山ですからねえ。成田系図も成田記も、ここ龍淵寺が発信元なんです。

 

ところがです、最近の有力説では、成田顕泰は長尾氏系であり、養父が成田正等で、顕泰

は養子として成田氏を継いだ、とされています。つまり成田氏の家系は断絶していたこと

になるのです。私は以前のブログで、鎌倉期の成田氏が鎌倉末期には、安保氏系に変わったこと(八坂神社文書)を紹介させて頂きました。今回の室町後期の長尾氏系へで、成田

氏は二度に渡って、系統が断絶している訳です。そこで成田氏を継いだ、成田顕泰・親泰

父子は、領国支配の正当性をアピールするために、彼らの祖として成田五郎家時と成田氏

の家伝を作り上げたのでした。成田氏家伝の祖型は、「旅宿問答」の記述中に見ることが

出来ます。その成田氏家伝の中心概念は、近隣支配のための成田四家伝説です。更には、

成田氏家伝を流布するために、顕泰・親泰父子は、成田家菩提寺龍淵寺を創建しました。

決して、幻の成田五郎家時の創建などではありませんよ。

 

しかし成田氏家伝は強力でした。新井白石の「藩翰譜」に掲載され、幕府編纂の「新編

武蔵風土記稿」にも影響を及ぼしました。成田氏家伝の影響力の源泉は、成田四家伝説

にありました。平安末期の伝承が、しっかりと鎌倉初期の歴史に反映されていたから、

ですね。でもこれって当たり前ですよ。だって後から筋書きを合わせているからです。

それでも後代の人々は、ころりと成田氏家伝に騙されてしまったのです。まさに印象操作

のなせる業だと言えましょう。江戸期の人々が、成田氏家伝を信じたことは、致し方ない

事かも知れません。しかし、昭和、平成、令和に至ってもなお、このような形で、伝承

活動が継続されていることは、驚くべき事象として、警鐘を鳴らさねばならないと考える訳なのです。フェイクはフェイクとして、正しく伝承されるべきなのです。(この章完。)

 

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熊谷市教育委員会 江南文化財センター
成田氏の歴史研究(熊谷市).pdf
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