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そして成田氏伝説は、現代に引き継がれた。Ⅷ

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行田郷土史研究会2012 編
郷土忍の歴史 成田氏時代(上).pdf
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行田郷土史研究会2012 編
郷土忍の歴史 鎌倉~南北朝時代.pdf
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 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。2週間ぶりです。

おコメの価格が一向に下がりませんね、政府の備蓄米を放出したハズなんですけどねえ。他の物価も上昇しているのだから、

仕方がないだろう、ですって!? その考え方は、農水省やJA全農の思惑通りの考え方ですよ。農水省やJA全農は、米の

価格を下げようなどとは、これっぽっちも考えていないからなんです。逆にもっと値上げしても良い?と、思っていますよ。

何故なら今までの米価が安過ぎた、と考えているからです。しかし前年比の2倍以上に高騰しているんですけどねえ、まだ

足りない、と思っている訳です。その理由は、国民とは何の関係も無い、JA全農、各地JA、農林中金等の赤字借金の返済の

ためなんです。つまり、政府と農水省の愚策によって自分たちが作り出した借金を、米価に転嫁しているだけ、のことなの

ですよ。米農家を含めて国民は、もっと怒るべきだと思いますけどねえ、、、 

 

 さて前回は、現在もWeb発信が続いている行田郷土史研究会2012による、中世史(平安末期~南北朝期)の記述、成田氏

時代(上編)と、鎌倉時代と南北朝時代ですが、同時代を記述した上記2点を見比べながら、その疑問点、問題点について

指摘させて頂きました。端的に述べれば、成田氏時代(上編)=成田氏家伝には、鎌倉時代と南北朝時代の記述が抜け落ちて

いるので、郷土忍(行田市+熊谷市)の歴史として完結させるために、玉津 識(森尾津一)氏は、鎌倉時代と南北朝時代の

記述を追加した訳なのです。しかしその記述は、残念ながら融合した忍の歴史にはなっていません。それぞれ別の歴史世界が

展開されたかのような記述に、なっているからです。原因は、著者の成田家伝信仰と時代観のズレにあったと、私は考えます。

 

 今回は、右側の鎌倉時代~南北朝時代を通読しながら、この時代観の相違?部分を、更に探って行きたいと思います。 

まず最初に玉津 識(森尾津一)氏は、この地域に城主クラスの武士は成田氏だけだが、館クラスの武士は多数いたと、釘を

刺しています。つまり以下記述の武士達は、館クラスの武士だと言っている訳です。そして熊谷市の市の名称にもなっている

超有名人、熊谷直実について書いています。ところがどこを読んでも、城主クラスであるハズの成田氏と熊谷直実との関係記述

は、どこにも見当たりません。更には、頼朝時代の吾妻鏡の記述などを見ると、残念ながら熊谷直実の方が城主クラスの扱いで

、同時代人であるハズの成田七郎助綱の方が、館クラス?の扱いなのです。平家物語の登場場面では、圧倒的に熊谷直実ばかり

ですしね。(成田氏は、端役で1回だけ登場。)

奥州遠征時の吾妻鏡での鎌倉出陣記録で、成田七郎助綱は、一応初出登場はしていますが下位の位置で、もう一方の熊谷直実は、

既に出家代替わりしており、嫡男の熊谷小次郎直家が、成田七郎助綱より上位で、出陣に臨んでいます。つまり、この頼朝時代

においても、熊谷氏の方が、当然上位者であったのです。まあ当たり前です、熊谷氏は古くからの専業武士であり、もう一方の

成田氏は、一応御家人であったとは言え、城主クラスなどではなく、単に武蔵国在地の農家兼業武士!に過ぎなかったからです。

 

 続いて玉津 識(森尾津一)氏は、忍の武士として河原氏を挙げています。平家物語や吾妻鏡には登場していますが、やはり

成田氏との繋がりの記録はありません。そして次には忍氏を挙げています。そして吾妻鏡での頼朝上洛パレードの参列者名簿

から、成田氏一族?(箱田、成田、別府、奈良、玉井ら)の名前も見い出し、彼らを、一ヶ村くらいは領有する人々であると

書いています。ところが玉津 識(森尾津一)氏は、忍氏の領地を見つけられずにいるんですけどね。忍氏を名乗るからには、

忍の領主であるに違いないハズと、勝手に思っているからです。さて、これをどう見るのか?、なんです。

皆さんも彼らが、一ヶ村くらいは領有する人々だった、と思いますかねえ? 私は、全然違うと思っていますけどね。

そもそもこの時代(鎌倉初期)においては、まだ平安時代からの荘園領主=朝廷・貴族の土地が全てで、在地武士の領地など、

存在しなかったからです。平家は領地を持っていただろうですって?、彼らは貴族ですから、領地を持っていて当然なんです。

しかし領地は持っていても、耕作・農作業はしないんです。つまり荘園からの税としてのコメや産物、人足などを得ていただけ

なのです。それは専業武士であった熊谷直実や斎藤実盛も同じでした。普段は領地になど、行きもしないのですよ。それが当時

の貴族であり、専業武士だったのです。一方東国武士である当時の成田氏一族?に、領地など無かったのです。東国は各村々を

含め全て、荘園領主(朝廷・貴族)の土地だったのです。この点を玉津 識(森尾津一)氏は、全く理解していないと考えます。

では東国御家人達が、自分達の土地(領地)を意識し始めたのはいつ頃なのか?、という議論になります。

私は、荘園領主である朝廷や貴族から、領地の荘官や下司、地頭職に任命された時からだと考えています。現地の徴税代官です。

元々は、各地の国司の下の下級役人でしたが、次第に農民たちは、徴税などで役人の言うことを聞かなくなります。飢饉なども

重なりましたからねえ、そこで荘園領主(朝廷・貴族)達は、武力を持つ在地の有力者を、荘官や下司、地頭職に任命するように

なりました。これが東国武士(兼業武士)の始まりです。そして鎌倉幕府を拓いた源頼朝は、それまで朝廷や国司が握っていた

荘官や下司、地頭職の任命権を、朝廷から奪い取りました。これにより、頼朝から新たに任命された地頭達は、旧来の荘官や下司

役人の土地支配権を、奪い取って行く事になるのです。東国御家人にとっては、この任務こそが、自分の土地、一所懸命の意識を

醸成して行ったのです。(しかし名目的には、その土地は従来通り、朝廷や貴族の所領であることは、変わらないハズ、なんです

けどねえ、、。)

つまり源頼朝は、土地の所有権と徴税権を分けることによって、朝廷・貴族から、土地の実質的支配権を奪い取った訳なのです。

 

 時代を少し戻してみましょう。1156年7月に勃発した保元の乱においては、成田、別府、奈良、玉井の成田四家だけではなく、

河上氏や箱田氏など数多くの武蔵国武士が、源義朝の元へ参陣したとされています。しかし都から遥か遠い武蔵国からわざわざ

、京の義朝の元へ参陣したなどとは考えられないのです。更に、彼らも、長井氏(斎藤実盛)や熊谷直実も含めて全ての武士が、

何故か埼玉県熊谷市内の武士達なのです。熊谷市内の各村から、保元の乱のために出陣?など、あり得ない話しなのです。

以前も申し上げたように、斎藤実盛や熊谷直実などの専業武士を除く熊谷武士達は、武士ではなかったのです。

当時の熊谷地方は、朝廷領でしたから、朝廷への税の一部として、村ごとに派遣されていた農民が、後白河天皇方の兵として

参陣させられていた、に過ぎなかったのです。まあ立派に戦ったので、保元物語にも載り、朝廷からも褒美として武具の他に、

各村の荘官・下司職(代官)として任命されたのでした。こうして彼らは各村へ帰り、村の名前を名乗り武士となったのでした。

(つまり保元物語時の成田太郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎は、氏族名などではなく、単に成田村の太郎、別府村の次郎、

奈良村の三郎、玉井村の四郎という、単なる呼称に過ぎなかったのです。)※北条義時だって呼称は、江間の四郎ですよ。

私はこの時点では、源義朝との武士団的主従関係なども、まだ無かっただろうと考えています。だって元々彼らは農民なんです

からね。(専業武士だって、ころころ主人を変えていますからね。)この点に於いて私の説は、武蔵横山党説とも異なります。

最初に武士団(党)があったのではなく、後から武士団が出来たのです。

なのでこの時点(平安末期)では、武士の領地などという概念は、まだ存在しなかった、と言えるのです。その意味で玉津 識

(森尾津一)氏の捉え方は、平安末期~鎌倉初期の領地概念というよりは、室町期的な領地・領国概念である、と考えます。

 

その後鎌倉期に入り、頼朝や鎌倉幕府から御家人達が地頭職を与えられると、武士達は、旧来の荘官、下司職らと戦い、領地の

支配権を確立して行ったのでした。でも鎌倉初期には、地頭としての支配権は確立しても、荘園領主(朝廷・貴族)への納税は、

まだ続いていたのでした。その後この朝廷への納税が、減少したり、納税停止が頻発したことによって、遂に承久の乱が、勃発

することになるのです。(次回へ)