· 

そして成田氏伝説は、現代に引き継がれた。Ⅶ

ダウンロード
行田郷土史研究会2012 編
郷土忍の歴史 成田氏時代(上).pdf
PDFファイル 561.3 KB
ダウンロード
行田郷土史研究会2012 編
郷土忍の歴史 鎌倉~南北朝時代.pdf
PDFファイル 753.6 KB


 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

年金生活者にとっては非常に辛い、物価高が進行しています。スーパーへ行くたびに前回より値段が上昇しています。その一方、

年金支給額の方は、昨年10月に支給通知書が来たまま変わりません。まあ先月はたまたま、支援給付金3万円がありましたので、

少しは助かりましたが、来月以降は再び不安になります。年金生活者にとって、日本国憲法に保障されている「健康で文化的な

最低限の生活」を維持する事は、至難の業であるようです。やはり年金生活者は、早く死ね!ってことでしょうかねえ?、、、

 

 さて前回までは、室町後期に作られた成田四家伝説が、昭和初期の「姓氏家系大辞典」にまでも、深く浸透している状況を、

成田姓、奈良姓、別府姓、玉井姓の記述を通して、見て参りましたが、成田氏家伝が、室町後期から昭和初期まで、連綿として

続いて来たのでした。そしてこの流れは、何と、令和の現代まで続いていたのだ!、というのが今回のテーマになります。

今回の史料は、稿本「郷土 忍の歴史」といいます。長いのでPDFファイルになります。この文書ファイルは、埼玉県行田市の、

郷土史研究会2012という、行田市民大学同窓会クラブによって、現在もWeb発信されている、膨大な郷土史文書の一部です。

※上記リンクを貼っておきましたので、皆さんもご確認下さい。

PDFファイルをダウンロードして頂かなければならないので、少し面倒ですが、PCでしたらマルチタスク機能でご覧頂ければと、

思います。で、この研究会は、埼玉県行田市の市民公益活動団体に認定されていますので、行田市(忍)の郷土史研究の、公認

団体である、とも言えるようです。(発信の信頼度が高い、ということですね。)

私の関心分野(古代~中世)の著者は、森尾津一著となっていますが、巻頭言を良く見ると、玉津 識という人物の著作でもある

ようで、良く判りません。もしかすると、元々は玉津 識氏の著作を、後の森尾津一氏が、編集し、行田郷土史研究会2012が、

デジタル化した文書なのかも知れません。何故ならブログ形式の最も古い、2018年7月28日の稿本「郷土 忍の歴史」の目次では、

タイトルが森尾玉津 稿本「郷土 忍の歴史」となっているからです。(現在は、全て、森尾津一著になっていますが、、。)

また稿本とは、下書きという意味ですね。まあ記述の文体を見てみると、明らかに戦前の文体ですわね、従って玉津 識さん著、

というのが、多分正しいのだろうと思われますがねえ、まあ良く判りませんです。

 

で、行田市公認で、現在の行田市民等から信頼されている「郷土 忍の歴史」ではあるのですが、私の関心分野である古代~中世

の記述においては、やはり現代の歴史教育的観点からは、疑問点や問題点を指摘せざるを得ない描き方なのです。

まずひとつめとして、平安末期~鎌倉・室町期の記述が、成田氏時代(上編)と、鎌倉~南北朝時代と、本来融合されるべき歴史

部分が、統一されずに、別々に並列記述されている点なのです。(左右各PDFをご確認下さい。)※時代別目次の方もそうです。

例えば左の成田氏時代(上編)では、時代は平安時代から記述が始まっています。元々成田氏は藤原氏系の貴族だそうですから、

武蔵国幡羅郡に移り住んだ?時点でも、荘園領主だったのだそうです。であれば、平安末期~鎌倉・南北朝期へと、成田氏歴代の

領主としての変遷を書けば良いと思われるのですが、平安末期の記述は、成田、別府、奈良、玉井の成田四家誕生の部分までで、

その後は何故か、途切れてしまっているのです。(この描き方、成田氏家伝とまったく同じですね。)

その後の鎌倉期の記述は、保元物語、吾妻鏡等の文献に登場している成田氏一族の名前を列挙しているだけ、なのです。

その後、成田氏祖先の異説として、武蔵七党横山党説を簡単に紹介し、これをいとも簡単に否定しています。(編集方針?)

その後の記述はいきなり、文明年間(1469~1486年)になり、成田家時(成田顕泰の祖父?)の時代の詳細記述に突入している

のです。この書き方構成、見覚えがありませんか? 即ち、鎌倉~南北朝期の成田氏についての記述が、文献の人物名以外無い

のです。まあこれでは、成田氏家伝・成田系図そのもの、ですわね。

 

それで敢えて章を分けたのかどうかは判りませんが、右側の鎌倉~南北朝時代として、別記述をしている訳です。(ご確認を。)

文体は良く似ていますので、両方とも玉津 識さんの著作なのだろうと思われますが、忍の同時代郷土史が2つ存在する形なのです。

郷土史としては、別々に歴史が存在するかのような形になり、奇妙な体裁になっています。 その鎌倉~南北朝時代の記述では、

成田氏家伝には登場していない、郷土忍(行田市、熊谷市周辺)出身の有名武士の、物語り上での有名事績を列挙しています。

ただ偏りもあって、最初に熊谷直実が登場していながら斎藤実盛は登場していないなど、玉津氏の好みが反映しているようです。

ここではっきりさせておかねばならない点は、熊谷直実や斎藤実盛は、熊谷市内に領地は持ってはいたが、専業の武士であった、

という点なのです。この点で、成田氏、別府氏、奈良氏、玉井氏らの農家兼業武士とは、決定的に違っていたのです。つまり、

平安末期の東国武士団発生期において、武蔵国幡羅郡の成田氏は、荘園領主ではなかった、農民だった、という点なのです。

また、専業武士で領地(禄)を得ていた熊谷直実と、領主?成田氏の関係についても、何も書いていないのです。判らないから?

更に、忍三郎の記述でもお分かりの通り、玉津氏は、成田氏は既に忍の領主だったという立場を取っていますので、吾妻鏡で

忍を名乗る東国武士が何人も登場していることに困惑しています。忍氏の領地については、何とも苦しい記述になっています。

しかし玉津氏は、鎌倉~南北朝期には、成田氏は忍の領主では無かったかも知れない?、とは、決して考えなかったようです。

何故なら当時も、一族である?成田四家(成田、別府、奈良、玉井)が、結束して承久の乱等に登場しているから、なのですね。

私は承久の乱で、成田四家(成田、別府、奈良、玉井)が揃って参陣したのは、尼将軍北条政子が、頼朝奥州征伐時の武蔵国

武士団の再参陣を要請したからだ、と考えていますけどね。決して四家で一族ではないのです。あくまでも昔の奥州合戦時の

武蔵武士団?を所望したのですよ。(吾妻鏡)ですから老体に鞭打って、四家とは関係のない、安保實光も入っているのです。

しかし玉津氏は、承久の乱でも(保元の乱でも)、成田氏の統率の元、成田四家として参陣していたのだと、考えているのです。

成田氏軍という考えですね。しかし承久の乱の吾妻鏡の記述は、軍の記述ではなく個々の御家人の記録です。どうしてでしょう?

私はこの理由を、平安末期~鎌倉初期の戦(いくさ)が、数十人~百人程度の規模の戦いが普通であったからだと考えています。

例えば平安末期の保元の乱、後白河天皇方の平清盛軍300人、源義朝軍の総勢が200人ですからね、これが京都市内各所に散ら

ばって戦う訳ですから、おのずと市内各所、数十人規模程度の戦いになるのですよ。だからこそ、戦の軍功記録を個人名で記録

することが可能だったのです。なんたって当時の戦の開始合図は、双方の名乗り合い!から始まる、のですからねえ。

集団戦ではなく、個人戦の集合なんです。その後鎌倉末期~南北朝期には、数百人単位の集団戦になりました。しかし千人単位

の参陣になったのは、戦国期に入って以降のことだったのです。(なので農民兵士を広く動員するため、支配領国自体も規模が

大きくなった訳です。)※家単位・村単位の戦から、国対国の戦いへ、です。

 

玉津氏にとって、後代室町期の戦国大名成田氏を考え、且つ成田四家という考えに縛られると、成田氏が平安末期からずっと、

忍の領主であった、という考えは、決して譲れない一線になっていたのだと思われます。しかもこの考え(思想)が、郷土史

とは言え、何と令和の現代まで、連綿と続いていた源流(ベース)となっていたのでした。 

さて、この考え方を打開するような、現代の新たな視点などは、無いのでしょうかね?(次回へ。)

 

※次回3月15日(土)のブログ更新は、都合により一回お休みとさせて頂きます。ご了承下さいませ。

 次のブログは、3月22日(土)の更新予定になります。

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    奈良信一 (水曜日, 12 3月 2025 15:12)

    コメント失礼します。はじめまして、北海道室蘭市在住、昭和42年生まれの奈良と申します。50を過ぎ自分のルーツを調べたいと思い検索していた折、偶然にも室蘭出身の「先輩」の記事を見つけた次第です。幼き頃、祖父が「自分は祖先は秋田」と言っていた記憶があります。

  • #2

    奈良 尚紀 (土曜日, 15 3月 2025 16:20)

    コメント有難うございます。私の曾祖父は、青森県弘前近郊のリンゴ農家でしたが、信一さんの
    ご先祖は、秋田の豪農だった、秋田奈良家と関係があるかも知れませんね。