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そして成田氏伝説は、現代に引き継がれた。Ⅵ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

3月に入り、日本国内はようやく春めいた気候になって来ておりますが、世界を見渡すと、春の訪れは一向に感じられませんね。

トランプ氏は、アメリカの分断を、世界の分断に拡張させようとしているようです。将来起きる、第三次世界大戦の引き金は、

トランプとその支持者達が引いたのだと、歴史に刻まれることになりそうな予感です。分断は最後には、戦争になるからです。

トランプ支持者は、戦争上等!と言う、好戦的な方々が多いですからね。しかし戦争をするなら取り合えず、米国国内だけで、

勝手にやってもらいたいと思いますよ。だって彼らはアメリカファーストなんですからね、我々他国が、戦争に巻き込まれる

筋合いなど、さらさら無いのですよ。ただ、今回のゼレンスキー大統領との乱闘騒ぎ、私はプロレスだと思いますけどねえ、、

 

 さて前回は、太田亮氏の 「姓氏家系大辞典」より、成田四家とされる別府氏を見て参りましたが、やはり別府氏の記述も、

成田氏家伝の強い影響を受けていたのでした。私は、別府氏もまた成田氏と同様、万世一系ではなかったと考えます。それが

原因で成田氏家伝(成田系図)は、別府氏の系図を、東西に分けたのだろうと思っています。敢えて難しくした訳ですね。

 

で、別府姓に続いて今回は、玉井姓の登場です。ここで成田四家とされる玉井氏は、どのように書かれているのでしょうか?

氏族名としては、1、甲斐の玉井氏、2、高麗族の玉井氏と続き、3番目に成田氏族としての玉井氏の説明が、延々と続きます。

成田四家としての説明で、成田氏、別府氏、奈良氏の説明と同じです。太田亮氏、成田家伝を信じているので致し方ありません。

しかし名前:玉井四郎が登場している引用史料の歴史的順番は、ぐちゃぐちゃですね。成田系図は別としても、何で次に1500年

代室町後期?の旅宿問答から始まっているんですかねえ? 私にはこの事、成田氏家伝がこの頃(室町後期)に広められた事を、

暗示しているようにも思える訳なんです。で、その後は保元物語、平家物語、吾妻鏡、新編武蔵風土記稿と、引用の列挙が続いて

います。まあ他と同じパターンですわね。 ただ、年代を超えて玉井四郎名が登場しているので、新編武蔵風土記稿などでは、

困惑しているようです。保元の乱(1156年)~承久の乱(1221年)まで、65年間に渡り、玉井四郎ですからねえ、何代目の

玉井四郎か?という話しになる訳です。私は保元の乱の玉井四郎が初代で、頼朝に仕え、平家物語や吾妻鏡に登場した玉井四郎

が、二代目だったと考えます。二代目は、平家物語 一の谷合戦の落ち足の段で、敵将平通盛を討ち取る場面で登場しています。

更には二代目玉井四郎が、源平合戦では武功を挙げながら、丹波国等で押領など悪事を働いたおかげで、後白河上皇から頼朝へ、

問責の院宣を受けたことで、逆に一躍、全国的有名人になってしまったのです。(平家物語+吾妻鏡より)

一応頼朝からは鎌倉追放処分を受けますが、実は甘い処分であったと思われます。何故なら、その後の頼朝の凱旋上洛パレード

にも、追放身分であるにも拘らず、しっかり凱旋行列の一員として、参列出来ているからです。(吾妻鏡より)

 

 私は多分、武蔵国の所領?は嫡男玉井太郎に任せ、自身は尾張に移住し、晩年は伊予(愛媛県)で過ごしたのだろうと思って

おります。何故なら尾張国葉栗郡玉井荘、そして伊予国伊予郡には玉井家の痕跡、があるからです。これらは玉井四郎と関係が

あります。ですから4、尾張の葉栗郡玉井荘の玉井氏には、玉井四郎の子孫としての証言が残っているのですよ。

更に、晩年を過ごしたと思われる伊予国では、1221年の承久の乱において、尼将軍北条政子の武蔵武士団招聘要請に応えて、

老体に鞭打って、わざわざ伊予国から駆け付けた16、伊予の玉井四郎が、最後の雄姿を見せたのです。(新編武蔵風土記稿では、

伊予の玉井四郎は、伝説の玉井四郎とは別人だろうと、言っていますけどねえ、、。)

承久の乱宇治川合戦の際、鎌倉幕府軍総大将である北条泰時の軍に参陣しようと申し出た、安東兵衛尉(忠家)と玉井四郎に

対して、北条泰時は、両者を、頼朝が鎌倉を追放処分とした者達なので、参陣を躊躇しているのですよ。(吾妻鏡より)

しかしそれでも玉井四郎は、立派に軍功を挙げたのですね。宇治川合戦の渡河作戦で溺死した安保氏の祖、安保實光も、玉井四郎

と同様に、老体に鞭打って参陣していた武蔵武士、だったのです。(吾妻鏡より)承久の乱の軍功者名簿に、武蔵国出身武士の

名前が多いのも、この尼将軍北条政子の、武蔵御家人出陣要請に応じたからなのです。

ですから私は、後白河院から問責の院宣を受けた玉井四郎と、伊予の玉井四郎は、実は同一人物だったと考えています。

 

私は伊予が、東国武士の英雄?玉井四郎の終焉の地であったと思います。英雄だったからこそ、何故か現代の愛媛県でも、玉井姓

が他県に比べて、異常に人数が多いのです。この玉井姓の数字・割合は、全国平均に比べ、愛媛県だけが突出しているのですよ。

あまり知られていないのですが、この事実は軽視すべきではありません。伊予の玉井姓は、愛媛県の地名から発祥したものでも

ありません。当時の大スターとなっていた玉井四郎の終焉の地だったからこそ、伊予には玉井姓が溢れたのだ、と言えるのです。

もちろん江戸期の、伊予の玉井家(豪農)の存在も重要です。しかしこのことをご存知ない太田亮氏は、温泉郡(道後温泉?)の

名族玉井家と、あの玉井四郎を、結び付けることは出来なかったようですね。時代が異なっていたからですかねえ? 地名に由来

していない氏族が、ある日突然、地元の名族として現れるなんて、考えられないことなんですけどねえ、、、。

私は、戦国末期まで鹿角の国人領主であった奈良氏(大湯氏)が、九戸政実の乱により秋田に移住し、秋田で豪農として成功した

秋田奈良家と、伊予の玉井家は、同様であろうと思いますけどね。戦国期までの武士は、武士であると同時に、農民でもあった

からです。はっきりと身分が分かれたのは、戦国末期~江戸期になってからのことですよ。

 

さて、今まで見て参りましたように、成田氏伝説は、昭和前期までも、高名な学者により、強力に受け継がれていたのでした。

それでは、戦後においては成田氏伝説、一体どうなったのでしょうかね?(次回へ) 

 

※次回は、当方の都合により3月7日(金)に、更新させて頂く予定です。

 

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コメント: 2
  • #1

    ナラ (土曜日, 01 3月 2025 15:14)

    こちらのHP、偶然発見させていただきました。私の本家が弘前のため、もしかしたら遠い遠い親戚かもしれません笑
    まだ全て読みきれておりませんが、これから楽しませていただきます。

  • #2

    奈良 尚紀 (日曜日, 02 3月 2025 12:02)

    コメント有難うございます。実は私の曾祖父は、弘前の隣町藤崎町のリンゴ農家でした。
    ご縁があったかも知れませんね。