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そして成田氏伝説は、現代に引き継がれた。Ⅴ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

トランプ旋風は、激しさを増すばかりですね。世界は茫然と、見守っているだけのようです。どう対処したら良いのか、判ら

ないからです。何故なら従来の世界は、漸進的考え(少しづつ、段階的に変えていく考え方)に基づいて動いて来たからです。

民主党政権でも共和党政権でも、ほぼ世界中どこでも、同じ考えでした。しかしこの考え方にいら立ち、世の中の激変を求めた

のがトランプ支持者達でした。既に臨界点に達したと言う訳です。トランプの良く使う言葉に「どうなるか、見てみよう。」

がありますが、結局彼は、彼の行為がどうなるかは、何も考えていないのですよ。とにかく、従来は常識だと考えられていた

全てを、ひっくり返してみることに執心しているだけなんです。それも漸進的にではなく急進的に、です。人類の英知の積み

重ね自体を、否定する形になりますので、その結果は多分、火を見るよりも明らかだと、思われますけどねえ、、、。

 

 さて前回までは、氏姓調査のバイブル、太田亮氏の「姓氏家系大辞典」から、奈良姓について見て参りましたが、奈良姓も

また、成田姓と同様に、成田氏家伝や成田四家伝説の強い影響を受けていたことが判ったのでした。また鎌倉期発祥の武士団

奈良氏のその後の展開も、太田亮氏の歴史勘違いにより、実は良く判らない、奈良姓記述になっていたのでした。

 

 そして今回は、同じく成田四家の一つとされる、掲示の別府姓の記述について、見て行きたいと思います。前回も申し上げ

ましたが、私は武家の別府氏も、成田氏同様に、万世一系ではなかったと考えております。もちろん成田氏家伝にある、成田氏

初代成田助隆の次男行隆を別府氏の発祥とするなどは論外なのですが、鎌倉初期の、平家物語や吾妻鏡に登場している別府義重

(義行)・清重父子と、南北朝期の、別府氏軍忠状に登場している別府幸実から連なる最後の別府長清までは、別系統であると

考えております。まあもちろん、武蔵国の別府郷出自の武士であったこと自体は、無論共通しているとは思うのですがね。

 

 それでは掲示の「姓氏家系大辞典」の記述を見てみましょう。一番最初に書かれているのが、何と成田氏族としての別府氏

なのです。現在の人口分布で言えば、別府姓は、鹿児島県や福岡県、愛媛県が圧倒的に多いのですけどねえ? 元々別府(別符)

とは、荘園の一部が租税免除の免田となった土地の意味でした。そういう土地が九州に多かったので、べっぷではなく、べふ

という呼び名・地名も定着していたようです。その意味で、武蔵国幡羅郡別府郷も、平安時代は免田地区だったのでしょうね。

しかし平安末期には兵役免除は通用せず、荘園領主である朝廷の税(警護兵)として、同郷の成田氏や奈良氏、玉井氏らと共に、

保元の乱で保元物語に登場することになった訳です。このことから成田四兄弟伝説が出来上がり、いの一番に成田氏一族にさせ

られている訳です。でも四兄弟ではありませんよ、何故なら四兄弟の玉井氏は、玉井三郎と四郎が、保元物語に登場しているから

です。四兄弟ならば、玉井三郎なんて存在するハズありませんよね?(三郎は奈良ですから、) でも相変わらず太田亮氏は、

別府姓においても、成田四家伝説を展開しているのです。(中身は、成田姓、奈良姓の時と同じです。)もう成田氏中毒ですね。

保元の当時(平安末期)の税としての東国農民に、姓や名などありません。だから成田村の太郎、別府村の次郎、奈良村の三郎

なのです。たまたま玉井村は、2人を供出していたのでしょうね、だから玉井村の三郎、四郎なのですよ。そしてもしかすると、

玉井三郎は、戦いで戦死したのかも知れませんね。それで四郎だけが生き残ったのですよ。こうして保元の乱の後、戦いでの

軍功により、後白河上皇方の朝廷貴族(荘園領主)より、ほうびとして鎧・武具・馬などを貰ったので、そこから武士になった

訳なのです。当然、村の地頭としての支配権(徴税権)も、朝廷から認められたのでしょう。その意味で武士とは農民よりいい

商売でした。ですから保元の乱当時、税として京都に来ていた武蔵国幡羅郡出身農民は、みんな揃って武士になったのでした。

この件は、東国武士団の発生経緯と深く関係し、重要な点なので、また改めて書かせて頂きます。

 

 さて話しを別府氏の記述に戻します。1の成田氏族とは項を分けて、2、氏人(氏族)として、保元物語や平家物語に登場

している別府姓の人物について書いています。成田系図に名前が無かったりするので、成田氏族とは別かも知れないと、思った

のでしょう。しかしあの狭い熊谷市内別府村に、別府を名乗る氏族が複数いたなどとは、到底考えられません。そこで万世一系を

重んじる成田氏家伝は、平安末期の事績として、別府氏を東西二つに分けたのでした。まあこの風習、今も続いていますけどね。

新編武蔵風土記稿では東別府村の項で、昔は東西の別は無かったと言っているんですけどねえ。(東西に分かれたのは江戸初期。)

私は、鎌倉期に記録の残る別府氏(別府小太郎等)は、鎌倉末期には既に衰退していたと考えます。成田氏が同様に、鎌倉後期に

安保氏系に変わっているのと同じです。ですから鎌倉期の記憶が失われているのです。ところが南北朝期に、その後の別府氏に

連なる別府幸実(尾張守)が現れます。足利尊氏から軍忠状(感謝状)を受けた、白幡一揆グループの別府幸実ですが、鎌倉期の

別府氏とは別系統だろうと考えます。何故なら、正平七年=文和二年(1353年)には足利尊氏から恩賞として、別府郷と越生郷の

地頭職を与えられているからです。元々別府郷の地頭ではなかったのですね。単に別府村出自だから別府を名乗っていただけなの

かも知れません。面白いのは、別府村安楽寺の墓石の碑文で有名な別府頼重が、同じ文和二年に死去している点なんです。(南北

朝期は、年号が2つあって大変ですが、正平七年と文和二年は同じ年です。)もしかすると、鎌倉期から続く別府氏嫡流であった

別府頼重が死んだので、別府幸実は、別府郷の地頭職を与えられたのかも知れませんよ。

とすると、あの別府頼重の墓石を建立したのは、もしかすると別府幸実だったのかも知れませんね、、、。継承追善かな?

 

 で、この別府幸実の系統は、その後の室町後期には、成田氏の家臣になっている訳です。ですから成田氏側としては、万世一系

を掲げる成田氏系図の中に、成田氏の家臣であった別府長清(尾張守)を、何とか組み込まねばならなかったのでした。

そのために成田系図は、敢えて別府氏を東西に分けたのです。つまり、長清の先祖として知られている別府氏の方と、良く判らない

別府氏に分けただけ、の事だったのです。ある意味当時の成田氏にとって、家臣である別府氏など、いい加減でも良かったのです。

それが証拠に、良く判らない西別府氏の系図には、平家物語の登場人物も、吾妻鏡の登場人物も、墓石の残っている別府頼重も、

誰一人載っていないのです。(太田亮氏は、成田系図に別府頼重を追加していますけどね。)何故か?、何も判らないからですよ。

そうです、別府氏が自ら作った系図ではないからです。

私は、1の成田氏族と2の氏人は、太田亮氏が判らないだけで、どちらも武蔵国幡羅郡別府郷出自の氏族のことであるので、1つに

括ってしまって良いと思いますけどね。 更には、熊谷市教育委員会の掲示板によれば、1590年の秀吉の小田原攻めで敗北した、

別府長清は、東別府氏第11代だったそうですから、10代遡れば、東別府氏初代(別府能行?)の時代に到達出来るハズですよね?

当時の1世代(嫡子が生まれて、次の嫡子が誕生するまでの期間)は、平均25年と考えると、25年×10代=250年前と言う事で、

1590年-250年=1340年頃と言うことになるのです。つまり、別府氏の初代は、平安末期の別府能行などではなく、南北朝期の

別府幸実である、ということが、ハッキリと判るのです。で再び記述に戻り、また何で3が居城なんですかねえ? 成田氏家伝に

毒されているとしか思えません。以降、4からは、各地に伝わる別府氏の記述になっています。これこそ全国各地に別府があり、

別府氏がいた、という本当の証拠なんです。(次回へ)