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政府備蓄米の放出が決まり、ようやくコメの値段が下がるかも?、と期待されている訳ですが、私はそれほど下がらないのでは
ないか?、と思っています。何故なら主食用米の総収穫量660万トンの内、僅か21万トンが市場に出回らず、売り惜しみ?
のお陰で、前年比80%も、コメの値段が上昇しているのだそうです。食べないと生きて行けません。でもねえ、政府が備蓄米を
20万トン放出しても、同じように買い占め?、隠匿?されるだけに終わる気がします。大儲けしているJAや米業者に対抗する
ためには、安いカリフォルニア米を大量に輸入して、市場に流通させた方が、手っ取り早いと思いますけどねえ。国賊?、でも
その方が正解だと思いますよ。何故なら、農水省が言う、コメは充分に足りている!が、実はウソだからです。元々コメは不足
しているのですよ。それを見かけの数字でごまかしています。政府の減反政策の影響ですね。つまり真犯人は農水省なんですよ。
さて前回からは、現代においても家名調査のバイブルである太田亮の「姓氏家系大辞典」の中から、奈良姓を見て参りました。
13、多々良奈良姓?(細川京兆家家臣としての奈良氏)を発見したまでは良かったのですが、室町中期以降の史料にしか、
奈良姓を発見出来なかったため、せっかく別府氏軍忠状の中から、奈良五郎左衛門尉の名前を見い出していながら、南北朝期~
室町初期の、足利尊氏⇒細川頼之・頼元兄弟と、奈良氏の関係まで、辿り着くことが出来なかったのでした。
そして今回も、奈良姓の記述の続き、です。8、成田氏系の奈良氏の記述に続き、9、陸中の奈良氏として、鹿角奈良氏に連なる
系統について書いています。鎌倉期に成田氏と共に、奥羽に下り繫栄した、とあることから、太田亮氏は、鹿角由来記は読んで
いないように思われます。ですから鹿角に渡った奈良氏が、大湯氏を名乗ったことや、九戸政実の乱の敗北により鹿角を追われた
ことなども、ご存知ないようです。しかし「津軽郡中名字」の中に、鹿角の国侍(国人領主)として、「奈良、成田、安部(安保)
、秋元」の鹿角四頭を発見しているのですから、成田氏、安保氏との関係解明まで、あと少しだったのです。また、九戸政実の乱
での出来事をご存じないので、何故、陸奥(青森か?)や羽後(秋田)にも奈良姓が多いのかも、理解出来なかったようです。
実にもったいない限りです。ただ、太田亮氏は、陸中の奈良氏は成田氏族の系統であることを認めています。であれば、陸中だけ
ではなく、他地域の奈良姓(多々良姓奈良氏とか)と成田氏族?奈良姓との繋がりも、探って欲しかったと思います。何故なら、
太田亮氏が讃岐の奈良氏でずっと引用している「南海通記」では、奈良氏は東国の出身だと、ハッキリ書いているのですけどねえ。
10~12の西国の奈良姓は置いて、続いて13、の多々良姓:奈良?になっている訳ですが、前回も申し上げた通り、細川管領家
の家臣としての奈良氏を見つけたのは良いとして、最初が応仁記や細川両家記からだった、という点はいただけません。
1470年代~1500年代の細川管領家と奈良氏との家臣関係だけでは、関係の起源が判らないからです。東寺百合文書は無理だった
としても、讃州細川記あたりは読んでいて欲しかった、と思います。せっかく足利尊氏よりの別府幸実(尾張守)軍忠状(感謝状)
の中から、奈良五郎左衛門尉の名前を発見していながら、これは成田氏一族系の奈良氏だとして、多々良姓?奈良氏と結びつける
ことが出来なかったのでした。(五郎と太郎なので、別人だろうと思ったのでしょうかね?)
もし南北朝期の細川頼之・頼元兄弟と奈良氏の関係を把握していたなら、多々良氏奈良?の書き方も、多分変わっていただろうと
思われますからね。
また次の14、讃岐の奈良氏も同様です。項を分けていると言うことは、多々良奈良氏と讃岐の奈良氏が、同一氏族であることを、
あまり良く理解していなかったように思えます。(一応同系統だとは言っていますが、)
例えば書き出しの引用で、南海通記での細川勝元四天王のひとり、奈良元安を取り上げ、その次に、全讃史での奈良太郎左衛門?、
高屋役(合戦)での戦功により宇多津城を築く、と書いているのは、歴史学者としては、実はめちゃくちゃな書き方なのですよ。
歴史の順番が逆だからです。筆者太田亮氏の致命的ミスだと思っています。(後世これを信じてしまっている人が多いので、)
細川勝元と奈良太郎左衛門尉元安は、1450年代前後の人物であり、全讃史の奈良太郎左衛門が活躍したと書かれている高屋役
(高屋合戦)とは、正平十七年(1362年)の細川清氏と従弟の細川頼之との南朝対北朝の戦いのことで、別名白峰合戦とも
言われる合戦のことです。つまり100年近くも、時代がずれているのです。
で、最初に細川勝元が来て、その後に高屋合戦が書かれている訳なんです。太田亮の勘違いなのだろうと思います。何故なら
私は太田亮氏が、高屋合戦(1362年)と高屋城の戦い(1575年)を、実は間違えたのではないか?、と疑っているからです。
せっかく南北朝期の別府氏軍忠状の奈良五郎左衛門尉の名前を発見しているので、同時代の高屋役(高屋合戦)での奈良太郎
左衛門とを結び付けることが出来たなら、成田氏族奈良氏と、多々良姓奈良氏を結び付けることが出来たのですよ。
まあ世間的には、ほとんど知られていない奈良氏ですからね、でも合戦の年代を間違えるのは、歴史学者失格だと思いますよ。
その意味で、全讃史が讃岐の奈良氏の名前を、奈良太郎左衛門としているのは、致し方ない間違いかも知れません。讃州細川記
でも細川頼之に従った宇多津の聖通寺城主とは、奈良太郎でしたからね。戦国期に讃岐奈良氏は、長曾我部元親に滅ぼされて
しまっているので、その後は誰も古い名前は、判らなくなっていたのでしょう。(その戦記が、延々と続いています。)
しかし我々は、別府氏軍忠状と東寺百合文書から、南北朝期のこの人物の本当の名前が、奈良太郎や奈良太郎左衛門ではなく、
奈良五郎左衛門尉=奈良五郎左衛門入道=奈良俊阿であることを、実は既に知っているからなのです。
従ってこの名前間違いは、奈良姓の一員の使命として、今後もしっかりと、訂正して広めて行かなければならないのです。
さてそれでは、同じく成田四家と呼ばれた別府姓や玉井姓については、一体どのように書かれているのでしょうか?
(次回へ)




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