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相変わらずトランプ旋風が吹き荒れ、世界の人々が戦々恐々としています。トランプの一挙手一投足に、何故かビビりまくって
いるのです。これトランプの思うつぼですよ。実は全然ビビる必要はない、というのが私の考えです。トランプは、プロレスを
やっているだけだからです。壮大なギミックで、ケーフェイ(ニセ脅し)を演じているだけ、だからなのです。戦いは、実は
ポーズだけです、真剣勝負(ガチンコ)は想定していませんよ。ディール(取引き)のための単なる手段だからです。
彼がその昔、ニューヨークのマジソンスクェアガーデンでWWWFのプロレスに出演していたことは、かなり有名な話しです。
だからWWWFのオーナーだったビンス・マクマホンの娘が、現在のトランプチームに加わっているのですよ。
彼の行動は、真に受ける必要はありません。一種のショーとして見ていればいいのです。ショーですから、彼が一番恐れるのは、
観客のブーイングです。ブーイングまみれになれば、彼は意気消沈するのです。何故なら世間は、彼をヒールだと見ていますが、
本人はヒールだとは思っていませんよ、自分はベビーフェイスだと思っているのです。だからブーイングに晒されると狼狽する
のです。ですからその時、真剣勝負(ガチンコ)を挑めば良いのですよ。
さて前回は、昭和初期に発刊された太田亮の「姓氏家系大辞典」で、成田姓の記述を見て参りました。そして今回はいよいよ、
我らが奈良姓の記述に移ります。前回の成田姓程ではありませんが、地味な奈良姓にも拘わらず、結構な紙数を割いていますね。
奈良の最初は、各地にある奈良の地名分布を列挙しています。続いて1~7は、古代からの文献に登場している奈良姓著名人?が
列挙されています。しかし太田亮氏、残念ながら「先代旧事本紀」の「国造本紀」は読んでいなかったようで、奈良神社の祭神、
奈良別命の名前は書かれておりません。この名から、武蔵国奈良村(熊谷市奈良)の地名は誕生したのだと言われているんです
けどねえ。全国の奈良地名の中で、武蔵国幡羅郡の奈良村の起源は調べなかったのですかね? ちょっと残念です。
そして古代の有名奈良姓の羅列に続いて、8成田氏族として、成田四家伝説(成田系図)による奈良氏の系統?が、綴られて
います。その引用は、相変わらず保元物語から始まり、続いて吾妻鏡、承久記、別府氏軍忠状、新編武蔵風土記稿から、抜粋列挙
されています。
まあ今まで我々が、奈良氏や成田氏家伝を追いかけて来たルートと、ほぼ同じです。南北朝期の「別府氏軍忠状?」が、新しい
ぐらいですね。集古文書24の、別府幸実(尾張守)軍忠状のことですが、これについては、後で書きます。別府氏は成田四家の
一つとして、戦国期に秀吉の小田原攻めで成田氏と共に敗北するまで続いた?、とされている訳ですが、私は別府氏も成田氏と
同様に、一度断絶していると思っています。成田氏家伝にあるような万世一系ではないのです。無論、初代成田助隆の次男行隆が、
別府氏の祖でもありません。第一次成田氏の祖が、吾妻鏡に登場する、成田七郎助綱であるのと同様に、第一次別府氏の祖は、
平家物語に登場し、香林寺を創建したと伝えられる、別府義重・清重親子なのだろうと考えます。だから成田氏系図には名前が
無いのですよ。(そもそも成田氏とは無関係ですから。)
しかし新編武蔵風土記稿では、成田氏系図の中に別府義重・清重親子の名前が無いので、何故か香林寺の寺伝や平家物語の方が
間違っている!、と言っている訳なのです。(コレ、本末転倒の記述なんです。)
で、別府幸実(尾張守)なんですが、別府郷出自の南北朝期の武士で、足利尊氏方として南朝方と戦い、観応の擾乱においては、
武蔵の白幡一揆(国人領主グループ)として、敵対する足利尊氏の弟、足利直義軍との戦いで戦功を挙げ、正平七年(1352年)
には、足利尊氏より恩賞として、武蔵国別府郷と越生郷の地頭に補任されているのです。で南北朝期、康永三年(1344年)の
別府氏軍忠状(尊氏からの感謝状)では、一揆グループの面々として、玉井太郎四郎、成田四郎次郎、奈良五郎左衛門尉、らの
懐かしい名前も記録されている訳です。ですからこれを見た太田亮氏は、すかさず成田氏一族の中の奈良氏の記録として考えた
訳なのでした。しかし、浅羽太郎左衛門尉、若泉太郎次郎、毛呂八郎などの名前もありますので、奈良氏を成田氏一族の中に括る
のは、太田氏の早とちりだったと思います。私が括るとすれば、成田氏一族ではなく、北武蔵武士団グループ(白幡一揆)だと
思いますがね。(鎌倉期の承久の乱で、尼将軍北条政子が敢えて招へいした、奥州遠征時の武蔵武士団みたいなものかな?)
で、しかしながら、さすが別府氏軍忠状は、一次史料(同時代史料)なのです。後代の史料(讃州細川記)が、奈良氏の名前を、
奈良太郎?などと記しているのに対し、別府氏軍忠状ではしっかりと、奈良五郎左衛門尉と、正しい名前が書かれているからです。
即ち、奈良五郎左衛門尉 ⇒奈良五郎左衛門入道 ⇒奈良俊阿 ですわね。このことは後ほど、13、多々良姓(奈良)の部分でも、
再度ご説明させて頂きます。
まあ南北朝期と言っても、1333年鎌倉幕府滅亡の10年後ですので、まだそれぞれの本領(成田、別府、奈良、玉井)は多分、
鎌倉期のまま維持されていたと考えるべきだと思われます。その後、南朝方に付いた成田氏は衰退し、北朝方に付いた別府氏や
奈良氏は、繫栄したのでしょう。そして成田氏は安保氏系に変わり、奈良氏は細川氏と共に三河へ移り、玉井氏は尾張・伊予へ
と、武蔵国から完全に消え去ってしまうのです。また別府氏については、章を別にして、改めて書かせて頂くつもりです。
さて「姓氏家系大辞典」の奈良姓 8、成田氏一族に続き、9~12を飛ばし、まず13、多々良姓(奈良)を見てみましょう。
そう言えば成田氏一族の中で、別府氏軍忠状に登場した、成田氏系の奈良五郎左衛門尉の名前がありました。でもその名前が、
奈良五郎左衛門尉!で、南北朝期の康永三年(1344年)と来れば、皆さんもう多分、お気づきだと思われます。
そうです、後の室町幕府管領細川頼之・頼元兄弟の重臣であった、奈良五郎左衛門入道のことですわね。私が讃州細川記と、
東寺百合文書の中から発掘した、奈良五郎左衛門入道=奈良俊阿です。太田亮氏の記述で言えば、多々良姓奈良(讃岐の奈良氏
も同じ)の先祖のことです。(多々良、讃岐って、実はどちらも同じ系統の奈良氏ですからね。)
この奈良五郎左衛門尉、観応の擾乱(1350年~1352年)あたりまでは、別府幸実らと一緒に、白幡一揆グループとして、北朝
足利尊氏方として、各地を転戦していたと思われますが、観応の擾乱からは、細川頼春・頼之父子と、行動を共にしていたと
思われます。つまり四国の南朝方と戦っていたのです。その後1358年に足利尊氏が死去し、二代将軍足利義詮の執事(管領)
として、細川頼之の従兄、細川清氏が就任するのですが、1362年幕府内の政争に敗れて清氏は、南朝方に下ってしまいます。
そこで二代将軍足利義詮は、従弟の細川頼之へ、四国の讃岐に逃れた細川清氏の追討を命じた訳なのです。(太平記より)
同年7月、讃岐の宇多津での白峰合戦(高屋合戦)において細川頼之は、奈良五郎左衛門尉と一緒に、細川清氏軍を撃破した
のでした。その恩賞として奈良五郎左衛門尉は、頼之から宇多津の聖通寺城を与えられているのです。(太平記、讃州細川記)
ここで、高屋合戦と高屋城の戦いを混同したのが、「姓氏家系大辞典」の作者太田亮氏だった訳です。この間違いにより、讃岐
奈良氏が宇多津の地を得たのは、それから100年後の細川勝元家臣、奈良太郎元安だ、と言う話しになってしまったのでした。
ただ太田亮氏が、細川京兆家家臣の奈良氏と、讃岐の奈良氏を結び付けることが出来なかったのは、応仁記や南海通記といった、
室町後期~戦国期の記録から、奈良氏の名前を抽出していながら、南北朝期~室町前期の記録(太平記等)からは見つけることが
出来なかったからなのだろうと思います。まあ当時はまだ、東寺百合文書が発見されていなかったからだろう、と思われますね。
1344年時点(軍忠状)が奈良五郎左衛門尉で、30年後1376年の東寺百合文書「細川頼元書下案」の宛名が、奈良五郎左衛門入道
ですからね、北朝方、足利尊氏方、細川京兆家方で、当然、同一人物と考えられる訳なのです。
当時の奈良氏が、摂津国の垂水荘を領有し、細川頼元時代の摂津守護代も務めていたことが判れば、古くからの細川家家臣で、
戦国期まで続いたことが、良く判るんですけどね。戦国期を描いた細川両家記の中から、家臣奈良氏の名前を発掘したのはお手柄
なのですが、氏族細川氏と奈良氏の関係・接点が判らなかったので、各登場場面を列挙するしか無かったのでしょう。(多分、
太田亮氏は、細川氏のことを、細川氏家伝にある通り、足利氏系統の、昔からの伝統的氏族だと、見ていたからなんでしょうね。)
成田四家の成田氏家伝と同様に、細川氏家伝の方も、信じてしまっていた訳なのです、、、。
今回は掲示していませんが、姓氏家系大辞典の細川姓を見てみると、大そうな細川氏系図から始まっているのですが、成田系図
と同様で、細川俊氏(矢田八郎)以前の系図は仮冒(虚飾)だと考えられます。細川氏初代とされる細川義季は、確かに細川俊氏
の父親だったかも知れませんが、姓は細川ではなく、矢田か広沢姓であったからです。私は、承久の乱の軍功により、矢田八郎が
奈良五郎と共に、三河国細川郷(岡崎市細川町)に地頭として入植したので、細川の姓を名乗り始めたのだ、と考えております。
つまり、それ以降の奈良氏の当主は、代々奈良五郎を名乗ったのだろうと思われます。(五郎太郎とか、⇒五郎左衛門へ、)
なので太田亮氏の細川氏(武家)の記述も、吾妻鏡から始まっているのですよ。それ以前の細川氏は、実は存在しないのです。
奈良氏と一緒に三河に入植して来たからこそ、出世した細川家の中で多々良奈良氏?は、家宰的な立場を、長年維持することが
出来たのです。(次回へ)




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