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いよいよトランプ政権がスタートしましたね。就任演説で私が一番注目した言葉は、コモンセンス(常識)を変える、と断言した部分です。従来当然だと、信じ
られていた事象を、否定する訳ですね。極論すれば、従来の人間の生き方や
価値観までも変える(否定する)と言う訳です。パラダイムシフトを狙っている訳ですが、逆に、信念対信念、正義対正義の戦いに突入する予感ですなあ、、。
その結果は、作用・反作用の法則に基づき、ゼロだと思いますけどねえ、、、。
トランプさんには、他者との協調、融和という考え方は、一切無いようですね。
さて前回までは、鎌倉期、室町期に存在していた成田氏の記憶が消え去り、
室町後期に新たな成田氏を引き継いだ、長尾氏系の成田顕泰・親泰父子が、
成田四家伝説を作り上げ、それが江戸期には成田系図として成田氏家伝がまとめ
られて、藩翰譜や新編武蔵風土記稿に取り上げられたことにより、家伝の信ぴょう性が高まって行った様子を見て参りました。
今回からは、幕末から現代にかけて、この成田氏家伝が更に、どのように歴史常識の中に定着して行ったのか?を、章を変えて
見て行きたいと思います。(ざっくばらんに言えば、嘘が真になる過程ですわね。)
でも奈良姓の由来ブログが、どうしてここまで成田氏の家伝に拘るのか?、と思いますよね? しかし拘らざるを得ないの
ですよ。何故なら奈良姓の由来・歴史が、現在も成田氏の家伝(成田四家伝説)に取り込まれ、且つ信じられているから、
なのです。元々地元が隣近所であっただけで、実際は奈良氏と成田氏は、兄弟(親族)であった訳ではないのです。
武蔵武士団の勃興期に、保元物語に揃って登場したのは、兄弟だったからではなく、この地域の荘園領主が朝廷で同一だった
から、租税(兵)として一緒に活動していただけ、に過ぎないのです。(※味をしめてその後、武士団になったけれど。)
それが証拠に、奈良氏には四家伝説など、伝わっていないからです。多分、別府氏も玉井氏も同様でしょう。ところが現在でも、
奈良姓の由来・歴史は、何故か成田四家の歴史として、描かれている訳なんです。(この辺りは、今後論証させて頂きます。)
ですから奈良姓の歴史から、この根拠のない成田氏家伝の呪縛を取り除くために、成田氏家伝の成立過程を、延々と追っている
訳なのです。と言う訳ですので、もう少しお付き合いを願います。
まず、初期の成田四家伝説の弱点は、人名や系図が無い点だったので、これを補うために、江戸中期に成田(氏)系図が
作られ、江戸後期編纂の新編武蔵風土記稿に採用・引用されたことにより、成田(氏)系図は広く定着することになりました。
しかしこの成田系図にも弱点があったのです。それは歴史を語る上で欠かせない、「物語り」(エピソード)でした。
人名と系図だけでは、説得力が乏しかった訳なのです。そこで江戸後期の文化七年(1810年)上之村の名主、小沼十五郎が
書いたのが、掲示写真の「成田記」(龍淵寺本)だったのでした。
具体的には成田氏中興の祖とされる、1400年代初頭の成田五郎家時の治世から始まり、その後の顕泰・親泰の事績を含めて、
戦国末期の豊臣軍との忍城攻防記まで、軍記を中心とする成田氏の物語りが、多数描かれました。
つまり、成田氏家伝・成田系図に、物語り性を加味した形になって、家伝の説得力が更に増して行ったのでした。
例えばその中では、成田五郎家時は、上杉禅秀の乱(1416~17年)に於いて、関東管領上杉憲基の側に立ち、配下の別府氏、
奈良氏、玉井氏らと共に?、相模川の戦いで戦功を挙げ、山内上杉氏の重臣として、頭角を現したのだ、としていますが、
残念ながら「成田記」以外には、そのような一次記録は見当たりません、、。私は、奈良氏や玉井氏は、鎌倉後期に、本領
である奈良村、玉井村を既に離れていた、と考えていますので、成田五郎家時と一緒に戦ったことなどは無かったと、考えて
います。また別府氏は、成田氏の家臣などではなく、独立した氏族として、南北朝期~室町初期にかけて、足利尊氏方として
活躍していたと考えています。更には成田五郎家時なる人物が、本当にいたのかどうか?も、怪しいところだと思っています。
それでも「成田記」は現在も、行田市や熊谷市の郷土史愛好家からは、引用され続けています。つまり「成田記」は、人々に
広く読まれる書物ではなく、歴史家や地元郷土史家から信頼・引用される歴史書・軍記としての地位を確立したのでした。
引用例の代表的な郷土史研究サイトとしては、「郷土忍の歴史」(行田郷土史研究会2012)があります。(リンク有)
とは言え「成田記」の登場により、成田氏の家伝は、完璧なものになったのでした。この「成田記」が原作となり、
知られざる忍城攻防記が、和田竜のベストセラー小説「のぼうの城」で、映画にもなったことは、特筆すべきことです。
但し、石田三成との忍城攻防戦や水攻めが、本当にどこまでが史実だったのか?は、実際は不明なんです。(戦があった
こと自体は、史実なんですけどね。)
しかし「成田記」によって、忍城攻防戦や甲斐姫伝説等が、地元で広く信じられるようになったことは、事実なのです。
但し、この「成田記」は、成田氏の菩提寺である龍淵寺に、長く秘蔵されていたため、世間に知られるようになったのは、
昭和に入ってから、今津健之助という人物によって出版されて以降のことだったのでした。 まあ世間的にはまだまだ、
知られざる「成田記」だった訳です。(成田姓、行田市民、熊谷市民以外の人々は、普通読まない書物でしょうからね。)
実はこれらの成田氏家伝が、本当に広く全国的に知られるようになったのは、昭和9年~11年に刊行された、太田亮の
「姓氏家系大辞典」によって、なのでした。(次回へ)

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