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消えた成田氏の謎とは?Ⅹ(まとめ)

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

先週まで猛威を振るっていたインフルエンザの流行が、今週に入って多少収まって来たようです。私2週間に1度の割合で、

内科と耳鼻科のクリニックに通っているもので、皮膚感覚で良く判るのですよ。どちらも風邪をひいたら良く行く医院です

からね。先週までは、ワクチンを接種していてもインフルエンザには何度も罹る、と恐れられていたのに、今週はそれも収ま

って来たようです。別に今頃になってワクチンが効き始めた?なんてことは無いでしょう?結局、コロナの時もそうでしたが、

人間の力だけでは流行を押し止めたりすることは出来ないのですよ。マスクと手洗いで耐え忍んでいれば、その内流行は収ま

ってくれるのだなあ、と思いましたね。多分病気の流行だけではなく、俗に世論などと言うものも、同様かも知れませんよ。

 

 さて前回までは、成田系図の強い影響が、江戸幕府によって編纂された「新編武蔵風土記稿」の記述にも及んでいた状況を、

上之村、奈良村、別府村の記述から見て来ました。新編武蔵風土記稿の編者が、各村の地誌を書く上で、成田系図に縛られて

いる状況を、見て参りました。で今回は、最後の玉井村です。保元物語、平家物語、吾妻鏡にも登場する、御家人玉井氏の故郷

であるハズです。ですから編者も気合いを入れて、玉井四郎の墓や玉井氏陣屋跡について調べた詳細結果を書いている訳です。

そのため逆に、村名の由来になった井戸や、井戸の神様を祀った玉井明神社(現玉井大神社)についての記述は、粗略になって

います。(村民の言い伝えなどは、逆にこっちの方が多いと思いますけどね。)

その一方で、玉井四郎の屋敷跡に建てられたとする玉井寺や、玉井四郎の墓については、大きな誌面を割いていますね。以前の

奈良村の際の、奈良三郎の屋敷跡とされる妙音寺と、奈良三郎の墓の記述と同様です。ただ、玉井四郎の墓については、どの代

の玉井四郎の墓なのか?と、疑問を書いています。保元の乱から源平合戦、承久の乱まで、代々の玉井四郎が、文献に登場して

いるからです。さすがに全て同一人物?、とはならなかったようです。何せ65年もの間隔がありますからね。そこで代々玉井

四郎を称したのだと、編者は考えたのでしょう。成田四家伝説を基にして、玉井四郎が登場した文献を、たくさん調べています。

玉井四郎が世間的に有名になったのは、源平合戦の一の谷合戦で平家物語に登場したことによって、なのですが、編者は、元暦

元年(1184年)9月20日付の吾妻鏡の記述で、遠征先の丹波国で、押領を行った玉井四郎資重を咎めよ、との後白河院の院宣が

頼朝に発せられたことに注目して書いています。まあ悪名の方で有名になってしまったのですね。このことで玉井四郎は翌年、

頼朝より鎌倉追放処分を受けています。まあしかし建久元年(1190年)の、頼朝上洛凱旋パレードでは、玉井四郎もちゃっかり

参加しているんですけどね。(※頼朝のお咎めは、大したものではなかったということ。)まあこれらの事績により玉井四郎は、

奈良氏などよりも遥かに有名人になっていた訳です。ですからこの「新編武蔵風土記稿」の編者も、玉井四郎の事績については、

玉井四郎の墓の記述だけでは足りなかったようで、敢えて跡形もない伝「玉井四郎陣屋跡」の項目を作って、玉井四郎について

の登場エピソードを、延々と書いているのでした。まあしかし引用文献が、保元物語と平家物語、吾妻鏡と成田系図だけなので、

たびたび登場している玉井四郎の誰が、成田系図に出ている玉井助実に該当するのか、当てはめるのに苦労しているようです。

(決して、成田系図を疑うことはないようですが、)私は保元物語の玉井氏は、三郎になったり四郎になったりあやふやなので、

頼朝に付き従った玉井四郎と、承久の乱に登場している玉井四郎が、同一人物だと思っています。つまり、成田系図の玉井四郎の

記述は、間違っているということです。後白河から糾弾された玉井四郎は、頼朝によって領地替えが行われ、武蔵国から尾張国、

その後は伊予国へ移っていたのですよ。もちろん地頭としてです。同様の事例では、箱田氏が長門国に移った事例があるじゃあ

ありませんか。(※頼朝の下文、荘園、名字の人口動態等の状況証拠があります。)

そして承久の乱に際しては、尼将軍北条政子の要請に応え、同様に北条方から追放されていた安東兵衛尉忠家と一緒に、北条泰時

の軍で戦い戦功を挙げたので、吾妻鏡の宇治川合戦の記録にも、伊予の玉井四郎として名前が載っているのです。宇治川合戦に

際し、老体に鞭打って参陣し戦死した、安保刑部丞實光と同じなのです。

更に私は同様に、奈良氏一族も、承久の乱での恩賞により、後の細川氏と供に、三河へと移住し、その後讃岐に移ったと考えて

いますけどね。

奈良氏が成田四家という形で、成田氏に取り込まれてしまっている現状の中で、何とか成田氏の呪縛を取り払いたいのですよ。

ですから私は、奈良氏にかけられている、成田四家伝説の偽りの呪縛を解き放つために、敢えて成田氏家伝の経緯を、延々と

追いかけているのです。

 

まあこのように「新編武蔵風土記稿」は、成田系図が正しいとの前提に基づいて玉井村及び玉井四郎を描いている訳なんですが、

これらの認識が、江戸幕府及び昌平坂学問所(現東京大学)の権威により、何故か真実として、定着して行ったのでした。

さてここまで「消えた成田氏の謎とは?」の論旨をまとめると、以下の通りになります。

 

<まとめ>

①成田氏の祖は、成田系図にある成田助隆ではなく、頼朝に従い、箱田氏領を引き継いだ、鎌倉御家人 成田七郎助綱である。

②成田四家は、元々兄弟ではない。保元物語に別府氏、奈良氏、玉井氏、箱田氏、らが一緒に登場しているのは、兄弟だから?

 ではなく、当時の荘園領主が同じ人物だったからである。彼らは税として各村より、朝廷警護の役務に就いていただけである。

➂国人領主、成田氏の系統は、鎌倉幕府の滅亡により、安保氏の庶流に引き継がれた。(一度目の成田断絶)

④国人領主、成田氏の系統は、室町幕府の衰退により、長尾氏系の成田顕泰・親泰父子に引き継がれた。(二度目の成田断絶)

⑤上杉氏の家臣として成長した成田氏は、領国支配を正当化するため、成田四家伝説を作り、領国内に広めた。

⑥新井白石の藩翰譜に掲載されたことにより、成田四家伝説が、武家の中で広く知られた。

⑦成田四家伝説の人名不足部分を補うために、成田(氏)系図が作られ、成田姓の人々の間に広く知られた。

⑧成田(氏)系図が、江戸幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」に採用され、学問的主流の考え方として権威化された。

                                              以上です。(この項了)