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消えた成田氏の謎とは?Ⅸ

 いつもこのブログをご覧いただき、誠に有難うございます。

物価高が止まりません。米も野菜の価格も、落ち着くどころか更に値上がりしています。庶民の味方、ラーメン屋のラーメンも

既に一杯千円を超えています。(少し以前、外国人向け観光地でラーメン一杯3千円!とか、騒いでいましたよね? もはや

普通ですよ。)働く給料は多少上がってはいるようですが、実質マイナスで、年金支給額などは全く上がりません。この状況、

トランプ政権になると、更に加速しそうですよ。世界中で戦争・混乱が続けば続くほど、インフレは加速するからです。戦争や

対立、関税紛争等の、負の影響が及ぶからです。世界中多くの人々の生活困窮は、実はこれからなのだ、と思いますよ。

 

 さて前回までは、江戸中期に書かれた新井白石の藩翰譜と、家伝を補強するために書かれた成田(氏)系図により、成田氏

家伝の信ぴょう性は絶大なものになり、江戸後期の、昌平坂学問所編纂の「新編武蔵風土記稿」では、旧成田氏領であった

上之村や奈良村の記述の中では、成田(氏)系図が、絶対的信頼の存在になっていた様子を見て参りました。

編者も成田(氏)系図を、すっかり信じ込んでしまった訳です。そうなってしまわなかった場合、編者の筆がどうだったのか?

を、今回は東西別府村の記述から、見て行きたいと思います。つまり上之村の編者と、別府村の編者の記述の比較です。

まずは左掲示の東別府村からです。まあ東別府村も、平家物語に登場する、別府小太郎清重などから続く古い村である、と言って

いますが、上之村の時のような大きな紙面を割いていることはありません。その次は重要な記述で、元々別府村はひとつの村で、

東西に分かれたのは正保巳年前(寛永年間頃とか?)のことだと、書いている点なんです。成田氏の家伝や成田系図によれば、

別府村が東西に分かれたのは、初代成田助隆の子である別府次郎行隆の子、別府能幸と行助の時代だと言うことになっています。

つまり伝説では平安末期なんです。しかし「新編武蔵風土記稿」の編者は、別府村の記述については、成田氏家伝や成田系図を

信じていないようなのです。「新編武蔵風土記稿」の編者は複数人いたと思われますので、成田氏家伝や系図を信じていない

編者もいたことが、この記述から判るのです。続いて東別府村の地理説明になり、真ん中掲示では、大昔(戦国期)は、成田氏

の領地だったと書いています。(それ以前の歴史は判らないということか?)以降、高札場、小名、寺社の説明になる訳ですが、

面白いのは香林寺についての記述です。 寺伝では別府小太郎清重の開基と伝えられているが、開山者である要岩は、弘治三年

(1557年)死去となっているので、開基者別府清重の年代(鎌倉初期)と、開山者の年代が合わない、と指摘しています。

まあ寺の宗派が変われば、開基、開山の時代が合わない事は良くあることですけどね。創建時は曹洞宗ではなく、修験道で

あったと考えれば、つじつまは合いますけどね。(鎌倉期の東国では、寺と言えば修験道でしたからね。)

ここからもこの編者は、旅宿問答などの別府村伝説も信用していないことが判ります。前回上之村龍淵寺の編者とは、えらい

違いなのです。更には、平家物語等に登場する有名な別府義重・清重父子の名前が、成田(氏)系図(の別府氏系図部)には

書かれていない点も、疑うべきだと言っています。前回も今回も、同じ成田(氏)系図を引用しているのですが、考え方の立場

により、記述の趣旨・内容は、大きく異なるのでした。

 それでは続いて、西別府村の記述(真ん中掲示部)も見てみましょうか。多分東別府村と同じ編者の記述だと思われます。

まずは村の地理で、ひとつ注目すべきは、江戸期の中山道に面しているという点です。その後江戸期の領主の変遷となり、次に

右掲示で高札場、小名の記述になるのですが、小名のひとつに「宿」があることが判ります。多分当時の熊谷宿の一部だったと

思われるのですが、この「宿」の地が、「旅宿問答」の舞台だったのだろうと思われますね。続いて寺社の記述になり、当然、

九品仏堂が出て来る訳ですが、養老年中の藤原不比等から始まる、いつもの九品仏堂伝承が淡々と綴られています。(そういう

伝承がある、という立場ですね。)更に子孫の別府甲斐守頼重の名前も中興の祖として書かれています。(まあ大きな墓石も

存在しますからね。)更には康暦二年(1380年)の小山義政の乱の舞台になったことも記載され、記載内容は「旅宿問答」の

記述と同様です。ですから西別府村には、このような伝承が存在する、というスタンスです。更に、九品仏堂や安楽寺とは項を

分けて、別府頼重墓の記述があり、墓に彫られている文和三年(1354年)や戒名の記述は当然として、頼重とは、成田系図に

記載のある別府重光の子であると伝えられている、との記述までありますが、あくまで伝承である、というスタンスですね。

まあ別府重光の子であるとの伝承が作られたのは、成田(氏)系図が作られた時点の事だと思われます。つまり成田系図が出来

てから、別府頼重は別府重光の子であるとの伝承が作られたのですよ。しかしその努力にも拘わらず、残念ながら年代の計算が

合わないのですけれどね、、。

西別府氏の初代別府行助は、成田系図上では、成田七郎助綱と同世代なハズですから、平安末期から鎌倉初期の人物です。成田

助綱が活躍した頼朝の奥州合戦は1189年ですから、この頃に別府行助も成田助綱も、成人だった訳です。成田助綱の5代後は、

成田資員になっています。同様に初代別府行助の5代後が別府頼重だとすると、この当時の1世代を25年で計算すると、25年×4

世代=+100年後が、成田資員、別府頼重の成人として生きていた時代だ、ということになります。(※次の世代が子を作り、

成人し次の子を作るまでを25年と考えます。)1289年頃ですね、ところが墓石の碑文により、別府頼重は、文和三年(1354年)

に死去し、享年は41歳だったと彫ってあるので、生まれた年も、1313年だと判明している訳です。ちょうど一世代分ぐらい合わ

ないのですよ。 つまり、別府頼重の名前は、後から継ぎ足したのだろうと推測出来るのです。(まあそれ以外の名前も、同じ

かも知れませんがね、) 何せ別府氏は、戦国末までは成田氏と共に、小領主として残っていましたからねえ、、。

しかしこれらの西別府村の伝承も、成田(氏)系図と、幕府編纂の「新編武蔵風土記稿」に書かれている、という権威化によって、

逆に世間に広く、認知される結果になって行ったのでした。つまり、これら「新編武蔵風土記稿」もまた、成田氏家伝の流布に、

結果として加担した、と言えるのです。それでは最後に、玉井村の記述では、どうだったのでしょうかね?(次回へ)